2022年8月16日火曜日

華岡青洲の全身麻酔薬「麻沸散」はなぜ衰退・消滅したのか


序論 

華岡青洲は1804年10月13日、自身が開発した全身麻酔薬である麻沸散※1を用いて(記録に残るうえでは)世界で初めて全身麻酔下の外科手術(乳がん摘出手術)に成功した※2。「西洋」ではウィリアム・モートンによるジエチルエーテルを用いた頸部腫瘍の切除手術が公開の場で行われた1846年10月16日が初とされているので※3、「西洋」に40年以上も先んじていることになる。にもかかわらず、華岡流外科手術の系統は現在では消滅して見る影もない。一方で40年以上も遅れて始まった西洋発祥の麻酔技術の現状はというと、ジエチルエーテルは発展途上国では現在でも維持麻酔薬(麻酔効果を持続させるための薬)として使用されているし、笑気麻酔(亜酸化窒素)は補助薬として日本でも現役で使用されている※A 等、西洋で初期に開発された麻酔技術の一部は今でもしぶとく残っており現役である。こういう点を考慮すると現代の医学における麻酔の発展には、麻沸散自体は全く関与しておらず、いつの間にか消えていった感が否めないし、事実としてそうだろう。いったいどうしてこのような決定的な差がうまれたのだろうか※Aa。世界史好きでなおかつITエンジニアの実務経験も多少あるが、この分野では完全な素人の筆者が抱いた素朴な疑問から出発して、関連本をかたっぱしから買ったり、ネットで検索して論文等から得た情報を基にして調べてみた。そこで一応筆者なりにそれなりに納得のいく回答(近似値)に到達できたと考えるので、以下に「なぜ消滅したか?」に対する持論を展開してみたい。


本論

結論から述べてしまうと、飲み薬(経口法)ゆえの欠点があるからだろう。すなわち

①麻酔が効き始めるまでに時間(導入に少なくとも1-2時間)がかかり、なおかつ回復が遅い(即効性が低い)

②麻酔深度が浅い(適合性が低い)

③麻酔深度の調整が難しい(調節性が低い)

といった点が挙げられる。


図1.薬物投与法の違いによる作用の強さと持続時間の関係

出典:名城大学薬学部 薬品作用学教室 薬効の評価 実習資料
http://www-yaku.meijo-u.ac.jp/Research/Laboratory/chem_pharm/mhiramt/EText/YS-LaboClass/YSLC00-2.html



要するに、麻酔薬としてのスペックが低いし、発展性がないということだろう。


麻酔薬は手術が終わったら作用がすぐ切れることが要求される※4。何時間も麻酔状態が続くのは患者の身体に負担をかけるだけでなく、医師や看護師にとっても負担がかかるからである。松木明知氏による麻沸散の再現実験によれば、ボランティア女性に麻沸散を服用させると、服用後40分~1時間で効果が発現し、後に意識を失ったという。イヌ・ウサギ・ラット・マウスによる数年間の動物実験の結果(投与量をいくら増やしても麻酔の効果無し)からほとんど麻酔の効果はないのではないかと考えていた松木氏は驚き、この女性を集中治療室に移して、胃管を挿入し胃から残留麻沸散の吸引を行い、8時間経ってようやく意識を取り戻したという。もし残留麻沸散の吸引を行わなかったなら確実に14-16時間は意識を失っていただろうと氏は推測している※5。また、瞳孔の散大は1週間ほど持続したらしい(麻沸散の主成分であるマンダラゲに含まれるアトロピンによる作用と推測されている)。この副反応の制御の難しさから人体実験に参加した青洲の妻は失明したのではないかと推測されている。(※ただし、青洲の母と妻が人体実験に参加したというエピソードは有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』で有名になったものの、出所が明確ではないため史実と断定できる確たる根拠は無く、エピソードに虚実が入り混じっている可能性もある。)


一方で、西洋で初期に使われたジエチルエーテルや亜酸化窒素、クロロフォルムといった麻酔は吸入麻酔である。気体として肺から取り入れるので飲み薬に比べて急速な吸収と排泄が可能である(胃での食物の滞留時間は短くて30分なので消化器系での消化・吸収はゆっくりとしたものである。それに比べて肺からの吸収量は1分間に約6Lと大量であり、肺と血管は直接ガス交換を行っているので即座に血流に乗って全身を巡るようだ。また、尿の量は1日に1~2L程度なのに対し、呼吸量は1日に9000Lにも達するというので薬の体外への排出速度も桁違いである。)。そのため、亜酸化窒素やクロロフォルムといった吸入麻酔は導入に数分程度(および吸入を止めてからの回復も数分程度)と高速であり、麻沸散の1~2時間(回復には14時間以上)と比べて格段に早い。また吸入麻酔の中でも麻酔が効き始める時間が遅いと言われるジエチルエーテルですら最短で15分である※B。この点においては経口麻酔法と吸入麻酔法の差はいかんともしがたいのである。

事実、欧米から吸入麻酔の情報や手法が日本に伝播したのは幕末であったが、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争では即効性が重要な負傷者の手術に対してクロロフォルム等が麻酔として用いられており、導入が遅い麻沸散は出る幕もなかったという※6。ただし、これは傷病兵の場合であって実際は麻沸散はすぐに消滅したわけではなく、しばらくは麻酔薬として臨床でも使用され続けたようだ。発掘された記録上では明治後半の1899年になっても麻沸散が使われていた例があるらしい。当時の吸入麻酔の精製度の低さといった品質の問題や、吸入麻酔に特有の安全性の問題(即効性があり効果が強いということは同時に安全域が狭いことも意味するようだ)、医師の知識・習熟度の問題、吸入器等の高価な麻酔器具を揃える必要があるというコスト面の問題といった障壁があり、すぐには駆逐されなかったのだろう。こういった「優れた技術が登場したからと言ってすぐに旧技術が廃れて消滅するのではなく、ある程度の期間併存する」といった現象は他にも見られるだろう。例えば、第一次世界大戦に戦車や装甲車等が登場したことで時代遅れとなったと言われる騎兵だが、実際は第二次世界大戦の頃でも騎兵は運用されており、騎兵突撃で勝利した例もあるらしい。また、最近の例では新型コロナ流行下で行われた2020年のアメリカ大統領選挙の期日前投票でも、郵便投票が大幅に増えて6500万票であったが、ネット投票ではなかった(おそらくセキュリティ上の問題等があるためネット投票を導入することが難しかったためだろう)。


ただし、同じ吸入麻酔でも各々欠点があるため、後に各々の欠点を補うために組み合わせて使う方法が一般的になっていったようだ。ジエチルエーテルは導入が遅いが同時に安全域が広い(トレードオフの関係)。クロロフォルムは導入が早いが安全域が狭い。そのため、1864年の英国内科外科学会が設けた委員会による報告ではジエチルエーテルとクロロフォルムの混合を推奨し、多くの麻酔科医も混合による使用であったが、後に導入にはクロロフォルム、維持にはジエチルエーテルに変えるという方法をとったという※7。


また、麻酔深度が浅く、深度の調節が難しいということはさらに難易度の高い外科手術にはより使いにくいということも考えられるではないだろうか。青洲が成功したのは乳がん摘出手術という体表面上のものを取り除く比較的難易度が低そうな手術であるし、また西方での初期の麻酔手術も頸部の腫瘍摘出や抜歯等と難易度としては低そうな外科手術である。これが心臓バイパス手術等のより難易度の高そうな外科手術の場合にはより一層の麻酔管理が要求されるので、高度な手術ほどより使い道が乏しくなり、ますます発展性がなくなるという事も考えられる。


以上は、スペックの低さという現象面にのみ着目した視点だが、では麻酔法開発の背景となった各々のパラダイムはどうだったかを探ってみたい。


西洋での初期は吸入麻酔ではあったが、今では静脈注射による麻酔(麻酔が効き始めるまでに10秒~30秒程度と吸入麻酔よりも段違いに早い)、硬膜外麻酔(手術時の痛みを取るための局所麻酔)が登場する等、引き続き技術進歩が著しいし、安全性も格段に高まっている(アメリカの統計では麻酔による死亡率は1970年には4500分の1だったが、1995年には40万分の1と低下している※8。ただ、この数字も推定に過ぎず、今ではほとんど死亡例がないらしい。ただ、昏睡の帯域の下限を下回る(死亡する)例はほとんどないものの、上限を上回る例(術中覚醒)は1995年時点で1%とそこそこ例があるようだ。筆者自身もネット上の某所で術中覚醒の体験談をいくつか目にしたので「なるほど。」と実例と統計が一致したことに妙に納得した記憶がある)。このような技術進歩の背景となっているのは「西洋」で発達した機械論的人体観・病理観というパラダイム、化学(1化合物単位で薬効を評価する。生薬単位で配合を考え、その組み合わせでもって体全体としての薬効を評価するフレームワークを持つ漢方医学(中医学)と対照的。)というパラダイムだろう。


気体を吸うのであれ静脈による注射であれ、とても「自然」な発想からは生じ得ないものだろう。そもそも腫瘍の摘出や、皮膚や筋肉を切り裂いてまで内臓を修復するという外科手術それ自体、不自然なものだ。(華岡青洲の乳がん摘出手術(外科手術)そのものが完全に西洋由来であり※8b、経口薬である麻沸散という麻酔薬および麻酔手法、脈診による術中モニタリングが漢方医学由来の手法である。蘭学経由で日本にも情報が伝播していたハイステルの外科書に記載のある乳がん手術(ただし麻酔無し)に触発されたらしい。最初に知ったのは永富獨嘨庵の『漫遊雑記』を読んでのものと推測されている。)

図2.ハイステルの外科書の乳がん手術の図(ドイツ語版、1743年)

出典:『改訂版 華岡青洲と麻沸散』P.107

図2b.ハイステルの乳房圧迫器の図

図3.ハイステルの外科書の和訳 杉田玄白『瘍科大或』

(オランダ語訳からの重訳である。下手な絵師に短い納期で描かせたのか写本故なのか不明だが、随分と雑な絵になっている。)


※出典:『改訂版 華岡青洲と麻沸散』P.107


こちらの絵が大元のようだ。
出典:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 『瘍科大成 8巻』
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005567#?c=0&m=0&s=0&cv=53&r=0&xywh=-1%2C-1041%2C6480%2C6400


物質は気体・液体・固体というように変化するというのは化学(および化学と霊的なものがごちゃまぜとなっている錬金術)パラダイムの基本であり、この基盤があったからこそ「気体」を医療に応用しようとする動きにつながったと言える。(実証されえない、反証可能性のない)「気」というエネルギーを自明のものとする思弁的な漢方医学パラダイムからはとても生じ得ないものだ※8c。(西方の錬金術は神により創造された物質の真理を解き明かそうとする物質本位で見るのに対して、中国の練丹術は道教(神仙術)に包摂される人間本位の視点なので化学にはつながらなかったと推測される。結果的に火薬という副産物が発明されたとはいえ。)漢方医学というパラダイム自体にとらわれている以上、発展性が乏しいのである。生薬を最小単位とし、その組み合わせによって初めて効き目を評価する多成分系・全体的評価のフレームワークの点に関しては、化合物単位での薬効を評価し要素還元主義に陥りがちで全体最適の評価が苦手な現代医学にも欠点があるので、いまだに漢方薬自体は強みがあるので、特定の分野では現役であり日本のドラッグストアの店頭でも漢方薬は売られているのではあるが。この点はジョゼフ・ニーダムに始まる議論(医療の分野において外科や解剖等は早くから西欧が中国を追い抜いたが、医療全体として明確に逆転したと言えるのはようやく19世紀後半だろう。ただし、患者側の視点に立って治療について考えた場合、20世紀初めの時点でも西欧の医学が中国の医学を追い抜いたとは明確には断定できないのでは?という議論https://akihitosuzuki.hatenadiary.jp/entry/2014/11/21/120543)にも通じるところがある。※9


ジエチルエーテル、亜酸化窒素、クロロフォルムといった初期に登場した吸入麻酔の歴史を調べてみると、過去の大物の科学者の名前が続々出てきたので筆者としてもとても驚いている。ジエチルエーテルの麻酔作用の発見は1818年であるが、発見したのはマイケル・ファラデーであるし(筆者はファラデーと言えば電磁気のイメージしかなかったので意外だった)、亜酸化窒素を発見したのはプリーストリー1772年)で、その麻酔作用の発見はハンフリー・デーヴィー(1799年)だという。つまり西洋における麻酔法の確立は西欧で蓄積された知見が大西洋を越えたことでなされたのである。また、クロロフォルムの発見(1831年)は独立して3人の科学者により行われたが、そのうちの一人がリービッヒである。このように気体による吸入麻酔法が西洋で登場した背景には機械論的人体観・病理観といったパラダイム(に基づく呼吸の研究等)や「化学革命」と化学の発展の基盤があってこそだろう※9a。この基礎科学の基盤があったからこそ、その後の分析機器(技術)・医療機器等の進歩と改良・新たな麻酔法の開発といったことが可能だったのである。


結論

麻沸散が衰退・消滅した理由としては、吸入麻酔に比べて麻酔薬としてのスペックが低く、漢方医学パラダイムの制約ゆえに改良の余地が乏しかったからと考えられる。漢方医学側に特有の体質である秘密主義(治療法を公開したがらない)に原因をもとめる説も過去にはあったが※10、現在では松木明知氏によって否定されていると言ってよいだろう。かつて明治期に公的支援から切り捨てられた漢方医学は現在では復権しつつあるし※11、本当に優れた麻酔法だったならば、現在でもしぶとく存続し続けるはずであると思う。それなのに現在では消滅してしまっている以上、衰退・消滅の原因は秘密主義によるものではなく、漢方医学パラダイムによる限界・スペックの低さ(及び改良の余地の乏しさ)が原因と筆者は考えている。


補論

『「豊かさ」の誕生』(バーンスタイン著)において、第一次産業革命以降の豊かさ(持続的な経済成長)が実現した4条件を挙げており、「私有財産制度(個人の財産権の保護)」「科学的合理主義」等を条件としている。筆者としては当初、この著作にインスピレーションを受けて財産権の一種でもある特許制度(中世後期の北イタリアの都市国家に起源を持ち、欧米では早くから始まっている)こそが東西の明暗を分けたのではないかと考えた。『医学の歴史』(中公新書)では麻沸散の衰退の原因として秘密主義説を唱えており、また知的財産権制度入門(2019年特許庁)の資料を見て「特許は発明をオープンにすることが前提」との記述から、バーンスタインが指摘しなかったオープン性(公開性)の重要性にも筆者は気づいたのである。


しかし、その後調査を続ける内に長年にわたって華岡青洲を研究してきた麻酔科学者の松木明知氏によって秘密主義説は否定されていた事を知った。また、モートンは公開手術の成功後にジエチルエーテルの吸入麻酔法の特許を取得したが、医療特許を巡っては当時のアメリカでも論争が起きたようだ。これより遡ること数十年前、ジェンナーにより天然痘ワクチン(牛痘法)が開発されたが、特許料によるコスト高騰により多くの患者を救えなくなる事への懸念から、ジェンナーは敢えて特許を取得しなかったという。それ以降、「医療分野での発明で特許を取得すべきではない」という暗黙の了解が出来上がっていたらしい。なのでモートンによる特許取得は当時としても異例で不文律破りだった訳であり、だからこそ当時のアメリカでも論争が起きたのだ。(個人的にはアメリカに不文律があるのは意外に思えて当初は半信半疑であったのだが、しばらくしてイチローがメジャーリーグに進出した際に「メジャーリーグでは大量点差がついてリードしている場合に盗塁してはいけないという不文律がある。これを破ると非難される」という話を聞いたのを思い出して、「なるほど。アメリカでも文書化されたルールが全てという訳ではないんだな」と腑に落ちた。) また現在の日本の法律では医薬品と医療機器の特許は認められているものの、治療法や手術方法は認められないらしい。

※参考

【Q10】 病気の治療方法や手術方法は特許がとれますか?

https://kenkyu.yamaguchi-u.ac.jp/sangaku/?page_id=300


以上の事から、特許制度における個人の財産権保護+オープン性(公開性)による発明・改良促進、もっと広く捉えるならば「制度」こそが明暗を分けた‥とは言い難いようである。バーンスタインの4条件の中から敢えて適用するとすれば、「科学的合理主義」こそが明暗を分けたと言えるだろう。


ギャラリー


モートンが考案したエーテル吸入器

出典:医療の挑戦者たち 15 吸入麻酔の普及(テルモのサイト)

https://www.terumo.co.jp/story/ad/challengers/15


エーテル・ドーム



ボストンにあるマサチューセッツ総合病院の最上階に存在する。モートンらの全身麻酔の公開手術がこの場所で実施されたことを記念とした空間である。中央の絵はその時の様子を描いたもの。

出典:Tripadvisor

https://www.tripadvisor.ie/LocationPhotoDirectLink-g60745-d4172035-i334466295-Ether_Dome_at_Mass_General_Hospital-Boston_Massachusetts.html

 

Ether Monument

Ether Monument

ボストンのパブリックガーデンに存在する。こちらもエーテルドームと同じくエーテルを用いた全身麻酔の手術を記念とするものであるが、エーテルドームとは様相が異なっている。

 

この彫像は苦しみからの解放についての聖書における一場面である「善きサマリア人のたとえ」をイメージしたもののようだ。中世スペインのムーア人風のローブの服装と頭にターバンを巻いた医師が、左ひざに死にかけている男を抱えて治療を試みている。ムーア人風の医師を描いたのは意図的なものであり、当時誰が最初にエーテル麻酔を始めたかを巡って、公開手術を成功させたモートン、それ以前にエーテル麻酔の手術を成功させていたと主張するロング、公開手術には失敗したものの非公開の歯科治療では亜酸化窒素による歯科治療を何度も成功させたモートンの師匠であるウェルズ、モートンにジエチルエーテルを勧めたチャールズ・ジャクソンがお互いに自分の功績を主張していたため、誰かに肩入れするのを避けるためであった。おそらく、わざわざこれを描いたのはリーセオンLetheon(ギリシャ神話において、その水を飲めば過去のつらい記憶を忘れることができるという川レーテーlēthēから命名)という商品名で売り出して製法の開示を拒み、医療倫理に反してまで利益を得ようとしたモートンに対する皮肉の意図もあったのでないかと思える。(ただジエチルエーテルであることはすぐにバレた上に、後のニューヨークの巡回裁判所の判決で「主成分であるジエチルエーテルの作用は以前からよく知られており、その効果を確かめたに過ぎない」という理由でモートンの特許は当初から無効と認定された。)
 
参考:
 善きサマリア人のたとえ
 
 Ether Monument
 
Ether Monument(Clio)
 
クロウフォード・ロング
 
 
ここからは参考サイト等には記載がないので筆者の推測になるが、中世スペインのムーア人風の医師はおそらく、イスラーム統治時代のスペイン・コルドバ生まれで『医学典範』を著したイヴン・ルシュド(ラテン語名アヴェロエス)がモデルだと思われる。
 
ラファエロのフレスコ画『アテナイの学堂』に描かれたイヴン・ルシュド 
この作品では古代ギリシャ哲学者の一人として登場している。
アウェロエスとピタゴラス

 出生地のスペイン・コルドバにあるイヴン・ルシュドの像
 
アラビア服を着て座っている男の像

 

オランダのハーレムにある昔ながらの薬局には、ムーア人の頭部を模した看板であるgaperが飾られている。 これも中世後期から近世にかけてヨーロッパに伝播・定着したユナニ医学の名残と言えるだろう。

 

 

以上のようにムーア人風の医師を敢えてモデルにしたのは単に「論争の当事者とは全く無関係だから」という理由だけではなく「過去の先達の医療上の遺産も忘れることが無いように」との意図も込められた含蓄のあるものだったものと思われる。

 

参考:

 Averroes

https://en.wikipedia.org/wiki/Averroes 

 

アテナイの学堂

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%A0%82 

 

gaper

https://en.wikipedia.org/wiki/Gaper

 

 オランダの伝統的な薬局の看板も今では問題に!?「ムーア人」の頭部を模したオブジェ「Gaper」

https://serai.jp/tour/1004446

 

ホレス・ウェルズの胸像

Bust of Horace Wells with inscription. Picture taken by Luca Borghi, July 2014. 

フランス・パリにあるアメリカ合衆国広場のトマス・ジェファーソン・スクエアに存在する。ウェルズは悲劇的な死を迎えたものの、悪名が高かったモートンとは違い医療倫理に背くような行為は無かったため、「麻酔のパイオニア」として評価された。特にフランスではウェルズの生前から「麻酔法の真の発明者」だと既に認識されていたようだ。

ウェルズの胸像の台座横には亜酸化窒素の吸入麻酔法を改良したPaul Bert の横顔が彫られている。Paul Bert は亜酸化窒素を酸素と吸入させることでより安全性を高め、ウェルズが実施した歯科治療だけでなく、一般的な外科手術でも安全に使用する方法を開発した。)

The monument to Horace Wells and Paul Bert, Place des Etats-Unis, Paris, France. Picture taken by Luca Borghi, July 2014.

What remains of the carved profile of Paul Bert. Picture taken by Luca Borghi, July 2014.

参考:

The Monuments Men In the History of Anesthesia, Too


Place des Etats-Unis

https://fr.wikipedia.org/wiki/Place_des_%C3%89tats-Unis 

 
 

 


華岡青洲 乳がん摘出手術の絵

出典:華岡青洲文献保存会

https://hanaokaseishu.com/literature3


日本麻酔科学会のロゴマーク。華岡青洲による全身麻酔手術を記念して麻沸散の主成分である曼陀羅華(チョウセンアサガオ)の花を描いている。


公益社団法人 日本麻酔科学会

https://anesth.or.jp/




※1 別名として通仙散というのがあるが、この名称は後世(華岡青洲死後)につけられたもので、当時の名称を尊重するならば麻沸散、あるいは麻沸湯とするのが正確である。


※2 麻沸散の処方は漢蘭折衷派の花井仙蔵、大西晴信が京都で配合していた処方を改変したものであり、さらに花井らの処方は中国元代の危亦林が編纂した『世医得効方』にまで遡ることができるという。華岡青洲以前に花井や大西、さらには『世医得効方』における処方で全身麻酔下での外科手術が行われた可能性はある(ただし、安全性を高めて麻酔法の実用化をしたのは青洲でありその功績が否定される訳でもないだろう。そういう意味では青洲の功績は、ジョゼフ・スワンが発明し改良に取り組んだ白熱電球を実用化・商用化に繋げたエジソンや蒸気機関を改良して実用性を高めたジェームズ・ワットの例に比せられるだろう。)。また、麻沸散の名称の由来となったのは三国時代の華陀による全身麻酔手術伝説であり、この伝説が事実であれば世界初はさらにさかのぼることになる。ただし、いずれの例も手術者名(あるいは麻酔施行者名)、患者名、手術時期といった正確な手術記録が欠如しており、「世界初」であることを証明できないので、手続き上、世界初と認定する要件を満たさないのである。

参考:『華岡青洲と麻沸散』P.123-124


※3 モートン以前にも全身麻酔下の手術は行われたようだが、様々な理由により正式には認められていないようだ。例えば、1842年1月にニューヨーク州ロチェスターのウィリアム・E・クラークによってエーテル麻酔が用いられ歯科医のElijah Popeによる抜歯が行われたが、この症例は論文にされなかった。また、ジョージア州ジェファーソンの開業医であるクロウフォード・ロングは1842年3月30日にエーテル麻酔による頸部腫瘍の切除手術を行い、以後数年間ジエチルエーテルを使用し続けたが、しばらくの間その結果を論文化しなかった。また、コネチカット州ハートフォードの歯科医であったホレス・ウェルズは1844年12月11日に笑気ガス(亜酸化窒素)の麻酔下で、友人の歯科医ジョン・リッグスに自身の親知らずの抜歯をしてもらうという実験を行い、成功した。その後患者15人程度の抜歯で試みて、そのうち何例かは失敗したらしい(笑気ガスは麻酔作用が弱いという欠点があるため)。1845 年 1 月 20 日にウェルズはボストンのマサチューセッツ総合病院で公開手術を実施したが、患者が途中で痛みによる叫び声を出したため失敗に終わり、一部の見物人からは「ペテン師」と嘲笑されたらしい(後に亜酸化窒素は麻酔作用の弱さから肥満とアルコール依存症には効果がないと判明した※イ。この患者は両方の条件を満たしていたようだ。また、この際に使用した亜酸化窒素ガスの品質の低さ(不純物の割合の高さ)が原因の可能性もあるとする見解も存在する)。ちなみにこの時ウェルズの助手として公開手術に参加したモートンは、この失敗を教訓として生かし、翌年に同所でジエチルエーテルによる公開手術に成功するのである。

参考:『麻酔の歴史』改訂第2版 P.11-14

『エーテル・デイ 麻酔法発明の日』P.97-98

https://en.wikipedia.org/wiki/Horace_Wells

※イ ウェルズの公開手術が失敗した原因については諸説存在する。

①患者が肥満でアルコール依存症だったから麻酔効果が無かったという説

(上記の英語版WikipediaのHorace_Wells)


②慌てていたため僅かに投与量が足りなかった説

(フランケンシュタインの誘惑E+#15「麻酔 欲望の医療革命」(NHKの科学番組))

③緊張していたのか、効果が出る前に手術を始めてしまったという説

(『世界史を変えた薬』講談社現代新書)


④亜酸化窒素ガスの品質が低かった(不純物の割合が高かった)可能性があると指摘。

(『エーテル・デイ 麻酔法発明の日』文春文庫 著者は断定まではしていない。)


(僅か200年ほど前の出来事なのに、なぜこんなにも全く異なる諸説が未だに入り乱れてまともに整理もされていないのか筆者には理解できないし、情報の扱いがあまりにもいい加減に思えてきて呆れてしまうが、それはともかく。)

以上の4つの説の内、出典を明記しているのは①のみなので、とりあえずの筆者の態度としては他3つは出典不明瞭により無効としたい。機械的な手続きではあるが。


※4 出典:『麻酔の科学』P.28-29


※5 出典:『華岡青洲と麻沸散』P.114


※6 西南戦争時に政府軍負傷兵を収容した大阪陸軍臨時病院では、麻酔法は当初クロロフォルムのみを用いていたが、後にクロロフォルムとジエチルエーテルの等量混合液を用いるようになった。純クロロフォルムの方が導入が早く患者も苦しみにくいが、患者の安全性(クロロフォルムの心抑制効果を最小限にする)を考慮した結果、ジエチルエーテルとの混合液を用いるようになったという。ちなみに西南戦争の時点で(少なくとも負傷兵に対する麻酔法としては)麻沸散が使用された実績は全くないようだ。

出典:『日本の麻酔科学のあゆみ~200年の軌跡~』P.165-166


※7 『麻酔の歴史』改訂第2版 P.31




※8 『エーテル・デイ 麻酔法発明の日』P.355


※8b ただし、ハイステルの手術は乳房切断術という乳房そのものを麻酔無しで切り取るという侵襲度の高い方法であり、華岡青洲による侵襲度の低い乳がん切除術とは異なる。西洋での乳がん手術を知った当初の青洲の感想は「蘭人,乳岩ヲ割ニ,鍛冶ノ鋏ノ如キ者ヲ以テ,核ヲハサミ切取ト云リ.如是スレハ,速ニ死ル也.蘭人ノ空言可笑ノ甚也.」(青洲の口述を筆記した『灯下医談』より)であり、「オランダ人は乳がん治療として乳房を切り取ったというが、こんな事をすればすぐに死んでしまう。オランダ人の虚言は可笑しい事この上ない。」と当初は一笑に付して信じなかったようだ。その後、ハイステルのような乳がん切断術という侵襲度の高い手術を青洲が行った形跡は一切見られないので、西洋式外科手術を知って「そのまま模倣した」わけではなく、「その情報に触発された」という表現が正確だろう。


※8c 例えば、華陀による「全身麻酔手術伝説」に関しては、詳細な記録が不明であり、後の時代の知識人からは「気の理論」による病理解釈を根拠としてフェイクだと切り捨てられたりもしている。

宋代の科挙官僚(兼政治家)であった葉夢得(1077-1148)は『玉澗雑書』において

"華佗はもとより神医である。とはいえ、范曄〔『後漢書』〕と陳寿〔『三国志』〕の記すその治療法―「病が内に結ぼれて、針や薬の及ばない場合、まず酒で麻沸散を服用させ、酔って感覚がなくなったら、腹や背を割いて鬱積を取り出す。腸や胃に病巣がある場合には、切断して洗浄し、汚染を除去する。それからただちに縫合し、神膏を塗布する。四、五日で傷は癒え、一月のうちには平復する」―このようなことは不可能である

 人が人として存在するのは形体によってであり、形体が生を営むのは気によってである。華佗が薬で人を酔わせて感覚を失わせ、切開を施しうるようにしたり、治療の後に分解したものをまた結合したりできたのかどうか、それは私にはわからない。しかし腹・背・腸・胃が切断されてしまったら、気はどこに宿っていられよう。

 このような目にあってさらに生き長らえる者がありえようか。華佗にこのようなことができたとしたら、手足を切断されて刑死した者もみな蘇らせることができることになり、王者の刑罰はもはや無意味となろう。

 太史公〔司馬遷〕が〔『史記』〕扁鵲伝に引いた虢の中庶子の言葉に、「治療に際し湯液・醴酒・鑱石・撟引〔按摩や導引〕を用いず、皮膚を切り肉を割き、血管を開き、筋を繋ぎ、胃腸を洗い五臓を濯ぐ」とあるのは、古代の兪跗の術についての言い伝えにすぎず、扁鵲にそのようなことができたというわけではない。ところがそれがそのまま華佗に附会されてしまったのだ。"

と述べ、気の理論による身体観・病理観をベースとして不可能だと指摘し、神がかり的で荒唐無稽な昔の伝説が華陀にこじつけられたというのが実態であり、「史実ではない」と断じている。

※出典:【和文翻訳】李建民「中国明代の縫合手術」(2013年) ―『外科正宗』「救自刎断喉法」考釈


華陀による全身麻酔による外科手術が史実だったかどうかはともかく、「侵襲度の高い外科手術は荒唐無稽な神がかりの術ではなく、現実的に可能である」というのが常識化している現代の我々から見れば「観念的な理論に振り回された馬鹿げた解釈」とも受け取れるだろう。ただし、それは後付けの結果論とも思える。事実、自然科学系ノーベル賞の最大の黒歴史とも言われるロボトミー(脳の一部を切除する手術。精神外科)は大きな禍根を残しているが、理論的根拠となったのは機械論的人体観・病理観の一種である機能局在説であった。こういった事例は要素還元主義、全体最適を考慮しない事の弊害が典型的に表れた事例とも言えるだろう。やはり伝統医学を「迷信的であり非科学的である」と単に切り捨てるのではなく、現代の医学との比較によって現代医学の欠けている点を浮かび上がらせてより高い次元に昇華させ、その知見を反映した評価(例えば医療の再定義や、患者本位の視点、医療哲学等)も必要という事かもしれない(温故知新)。

※参考:

ノーベル賞から30年で禁忌になった「ロボトミー」とは?中野信子氏が語る脳科学の歴史

https://logmi.jp/business/articles/234264

フランケンシュタインの誘惑E+ #4 「脳を切る "悪魔の手術"ロボトミー」

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2019097346SA000/


※9 ニーダムは自然科学の進展について分野ごとに分けて西欧と中国を比較分析し、横断点(逆転ポイント)と融合点(消滅ポイント)というマイルストーンで表現した。


図4.Needham's graph


出典:Joseph Needham's contribution to the history of science and technology in China(国連大学の旧webサイト)

https://archive.unu.edu/unupress/unupbooks/uu01se/uu01se0u.htm


数学や天文学、物理学といった複雑性の低い分野は早くから西欧が中国を逆転し完全に葬り去ったが(ニーダムはその時期をガリレオの時代だとしている)、より有機的(複数の要素間のダイナミックな相互作用が働く)で複雑性が増す分野ほど逆転ポイントの時代が後ろにずれ、なおかつ逆転ポイントと消滅ポイントの間の期間が間延びする傾向にあると指摘している。グラフを見ての通り「化学」の逆転ポイントは物理学等よりももっと後の時代(ラヴォアジエのパラダイムシフトの時代)になってようやく明確に中国を逆転し、その後19世紀末に中国の伝統的な「化学」は消滅して西欧発祥の化学に統合されたと分析されている。だが、医療(医学)の分野においてはようやく19世紀後半に逆転したものの(ニーダムの論拠は未確認だが、1858年のウィルヒョウによる細胞病理説によって古代ギリシャ以来の体液病理説をようやく乗り越えたとしているのだろう)、現代になっても融合点に達していない(伝統医学を吸収・統合して葬り去っていない)と分析されている。現に現在の日本でも未だに漢方薬局が存在しておりドラッグストアでは漢方薬が普通に売られているし、全医学部で漢方医学教育が正式に実施されるようになる(約100年ぶりの漢方医学の復権)という驚くべき事態が生じているし※11、針灸治療は現在でも医療類似行為として公的にも認められており現代の科学的な知見で持ってしてもこのような伝統医学の理論体系(診断や治療法含む)を十分に扱い切れていないので、個人的な実感としても十分納得できる話ではある。


現在のドラッグストアで売られている漢方薬の一例『大正漢方胃腸薬』(2022/08/14 筆者撮影)。「安中散+芍薬甘草湯」という薬名の命名方法も伝統的な形式に則っている。また3枚目の画像にある成分の内訳はケイヒやエンゴサクといった生薬が最小単位となっている。安中散の処方は北宋代の大観年間(1107–1110)に初版が編纂された『和剤局方』という薬剤の処方集(世界初の国定薬局方)にルーツを持つので、約900年前の処方がそのまま現在でも利用されていることになる。麻沸散は消滅してしまったが、このように漢方薬の中には現在でも生き残っているものも存在する。

※添加物として無水ケイ酸や乳糖といった化合物が含まれている。これらはおそらく防湿剤(乾燥剤)として薬品の品質保持のため等に利用されていると推測される。このように漢方薬と言えども現代においては、決して伝統医学にのみ依存しているのではなく現代的な科学上の知見・要素(化学パラダイム)も取り入れていることが伺える。


生薬‥天然に存在する薬効を持つ産物を、そこから有効成分を精製することなく、体質の改善を目的として用いる薬


※エンゴサク (延胡索) - 新常用和漢薬集(公益社団法人 東京生薬協会)

https://www.tokyo-shoyaku.com/wakan.php?id=22

第十八改正日本薬局方にも収載されている生薬である。


現代の標準的な医薬品(西洋薬)の一例『ガスター10』(2022/08/14 筆者撮影)。成分の内訳はファモチジンとなっており最小単位は化合物となっている。しかもこの例だと一種類の化合物しか含まれていない。このように現代の標準的な医薬品は化合物の単位で薬効を評価するフレームワークである。生薬単位に比べて精緻な反面、化合物の数が増えると組み合わせ数が指数関数的に増えてテストケースが莫大なものになりそうだ。


ファモチジン‥1979年に山之内製薬によって開発された。現在では特許切れのためジェネリック医薬品も存在するようだ。なお、山之内製薬の大衆薬部門は第一三共グループに売却・吸収されたため、現在の製造販売元は第一三共ヘルスケアとなっている。

ファモチジンの化学式‥C8H15N7O2S3


また、(中国本土で教育を受け且つ研究を続けた)中国人としては初めて自然科学系ノーベル賞を受賞した屠呦呦はアルテミシニンというマラリア治療薬発見により2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞したが、晋時代の道家で煉丹術師の葛洪(280年頃~340年頃)が急性病の応急処置などをまとめた書物『肘後備急方』にひらめきを得て発見したという。1960年代に世界中の科学者・研究者が何十万もの化合物をテストしてみたが、なかなか有効な治療薬が見つからなかった。そうした中、彼女はベテランの中医を訪ねたり中国伝統医学の古書や民間療法を調査して最終的に数千通りの調剤法に候補を絞り込むという別のアプローチをとった。そうした中で肘後備急方』に記載のある青蒿(クソニンジン)の低温抽出法にヒントを得てアルテミシニンの抽出・治癒効果の発見に繋がった。ITの世界でも暗号解読法として総当たり攻撃(別名:力任せ法やブルートフォースアタックと言い、理論上考えられる全ての組み合わせを手当たり次第に試す方法)よりも辞書攻撃(複数の文字の構成で初めて意味をなす単語を最小単位として、その組み合わせを試す)の方が遥かに効率が良い事が知られている。化合物単位で見れば理論上想定される組み合わせの数はそれこそ天文学的な数字となり何の手がかりも無しに手当たり次第にテストする手法は効率が悪いが、屠呦呦のアプローチのように過去の何千年にも渡る伝統医学の知見を生かして予め候補を絞り込むというのは効率的であり、そういうアプローチの仕方もあるのかと感心した(筆者は素人なので分からないが、化学の分野でも候補を絞り込む手法はおそらく存在しない訳では無いのだろう)。こういう事例を見ても数多くの要素が絡む複雑過ぎる分野へのアプローチとしては21世紀の最先端の科学技術を持ってしても未だに伝統医学を完全に葬り去る事ができないのである。

参考:屠呦呦 - wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E5%91%A6%E5%91%A6


クソニンジン(熊本大学薬学部野草園 植物データベース)

https://www.pharm.kumamoto-u.ac.jp/yakusodb/detail/004571.php


抗マラリア薬アルテミシニン類の研究開発(その1)

https://spc.jst.go.jp/hottopics/1706/r1706_guo01.html


中国人のノーベル医学賞受賞、伝統中国医学を衰退させることになるか? - swissinfo.ch

"スイスでは伝統中国医学が大人気だ。医療保険の対象としても特定条件のオプションで認められている。"

"大事なのは有効成分の抽出方法だ。そして、その事実が「アルテミシニンは化学薬品なのか、伝統的な中国医薬なのか」という論争を巻き起こした。"

"ノーベル委員会はトゥーさんの受賞を「今年のノーベル賞は中医学ではなく、伝統医学にひらめきを得て新しい医薬品を開発した偉大な研究者に与える」と説明している。"

"ワン教授も「現代薬学の方法でアルテミシニンを抽出したが、ひらめきを得た中医学あっての功績だ。ノーベル委員会はこの点を正しく見抜いた」と強調する。"

"広い視点から全体的なバランスを重視するのが中医学。それを個々の要素に焦点を当てる西洋医学で分析しようとすることは、中医学に死刑宣告が下されたのと同じだ」と警鐘を鳴らす。"



※9a 西洋内科は外科・解剖学といった分野に遅れて日本でも受容が始まったようだ。江戸詰の津山藩の藩医であった宇田川玄随は当初漢方医であったが、杉田玄白らの蘭学グループと交流する中で西洋医学に傾倒し、ゴルテルの内科書(オランダ語)の翻訳を開始し、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』を1793年に刊行開始した。『解体新書』が出版されてから19年後であった。次々代の宇田川榕菴(玄随の養子の養子)は西洋薬物学の翻訳を手掛ける内に日本の本草学とは異なる植物学、さらには植物成分を物質として扱う新しい学問である化学があることを知り、当時入手可能だった20数種に及ぶ化学関連の蘭書を読破・吸収して日本初の体系的な化学書である『舎密開宗』を1837年から10年にわたって刊行した(現在でも定着している元素・窒素・酸素・水素・炭素や、酸化・還元・試薬・昇華・凝固、硫酸・炭酸・飽和・ろ過・成分・金属といった化学用語は榕菴が翻訳の際に考案した造語である)。このように西洋内科を研究していく内に西洋植物学さらには化学へとたどり着くのは必然であった。

※榕庵が考案した造語として他には「細胞」「花粉」「繊維」といった現在でも一般的に使用されている植物学(生物学)関連の用語、「温度」「圧力」「法則」「物質」等も存在するようだ。

※参考:
『化学史への招待』日本の化学のはじまり 人と風土 P.240-241

<津山洋学資料館>
宇田川玄随と『西説内科撰要』
『和蘭薬鏡』と『遠西医方名物考』
榕菴と植物学の出会い
『舎密開宗』の刊行


※10 『医学の歴史』中公新書 P.191(kindle版)において解剖学者の小川鼎三は

「青洲の全身麻酔法が欧米に先んじていながらその後の発展をみなかったのは、その方法を公開せず、秘伝として子孫や高弟にのみ教える傾向があったためである。」

と原因を秘密主義(秘密性、非公開性)に求めているが、麻酔科医で長年に渡り華岡青洲の研究を続けてきた松木明知氏は「全身麻酔手術の成功によって全国にその名が轟き、大隅と壱岐以外の全地域から弟子が集まったし、必要に応じて高弟以外にも製法を教えたので、言われるほど秘密でもなかった。事実その後の研究によって華岡流医術は全国各地で実施された事が発掘された記録によって続々と明らかになってきた。また、安易に公開すると未熟練者や下手な術者により手法が乱用されてしまい安全性が担保されないからこそ、伝授者を厳選したに過ぎない。現に(導入が早くて麻酔作用も高いが安全性の担保が難しい)クロロフォルムが導入されてからの100年間でイングランドとウェールズだけでも2万4378人がクロロフォルム麻酔が原因で死亡している。」と指摘し、秘密主義説を否定している。実際、青洲は弟子でもなく面識も無かった杉田玄白に請われて麻沸散の製法を教える等の柔軟な対応を取っているし、幕末の津軽藩の藩医であった三上道隆が鼻の再接着手術を麻沸散による麻酔によって実施した記録があったり、幕末の志士で医師でもあった橋本左内も麻沸散を使った外科手術の経験があったりでそれなりに全国的に普及していた事が伺える。

※出典:『華岡青洲と麻沸散』P.191-193

ただ、松木氏は上記の著書で「安全性を考慮したから伝授の対象を厳選した」としているものの、「だれでもかれでも手術を行えば、多くの致死的トラブルを起こすことになることを青洲は知っていたに違いない。だからこそ、一定以上の資質を備えた門人だけに麻沸散の処方を伝授したのであろう。」(同著 P.193)とその明確な根拠は示しておらず、氏の憶測によるもののようである。おそらく青洲は安全性云々とそこまで考えておらず、単に当時の漢方医の世界の慣習に従っただけだろうと筆者は考えている。よって結論としては、当時の慣習としてある程度の秘密主義が存在していたのは事実だとしても、それが衰退の原因とは言えないという事だろう(実際、水戸出身の弟子である本間玄調は公開禁止であった麻沸散の処方を公開(処方が記載された書物を出版)して破門されたものの、麻沸散の処方を改良して麻酔作用を高めて師の青洲が踏み切れなかった四肢の切断手術に成功していたり、華岡流医術を継承した美濃の不破為信父子は乳癌とその腋窩核摘出に成功する等、青洲以後にも一応は華岡流医術は発展している事が伺える)。

※参考:

不破家華岡流医術の検討 不破為信http://www.gifu.med.or.jp/history/a_fuwake/fuwa.htm


※11 2001年に医学教育で習得すべき内容を示した医学教育モデル・コア・カリキュラムが文部科学省から提示されたが、和漢薬の科目が必修となった。1895年(つまり日清戦争に勝利後)に帝国議会の決議によって漢方が開業試験科目から正式に除外されてから100年以上経た上での復権となった。2017年の改定では「漢方医学の特徴や、主な和漢薬(漢方薬)の適応、薬理作用を概説できる」とさらに踏み込んだ内容で記載された。2020年現在では全国82の全医学部において漢方医学教育が行われている。

出典:『基本がわかる漢方医学講義』P.24-25


※A 出典:<浦和のオジスキンクリニック-安心リラックス麻酔>
"安心リラックス麻酔とは、亜酸化窒素(笑気)と医療用酸素を混合した気体を吸入して、痛みを感じにくくリラックスした状態を作り出す笑気麻酔です。効果の発現と消失は非常に速く、2~3分鼻呼吸をしていただくとゆらゆらとゆりかごに揺られたような感覚となります。

意識は残りますが、ぼんやりとする状態をつくる作用があることで施術時間も短く感じられ、強いストレスを感じることなく施術を終えることが可能です。麻酔終了後の覚醒も非常に速やかで当日車を運転して帰宅できるほどです。

また、笑気は体内で分解されずに呼気中に自然に排出されていくため、循環器や呼吸器、肝臓、腎臓などにも負担をかけません。もともと高血圧や心臓に持病のある方は不安や痛みを感じることで血圧上昇や心拍数増加のリスクがありますが、安心リラックス麻酔を用いることで血圧が上昇するのを防ぎ、より安全に施術を受けていただくことができます。"

https://www.ozi-skin.com/beauty/treatment/anesthesia.html


※Aa ただし、2022年現在においても全身麻酔が効く詳細なメカニズムは依然として未解明である。20世紀初頭に膜脂質説が提唱されたが、1980年代になり膜タンパク質説が徐々に支持を得るようになっていたらしい。その後の2020年7月にある研究が、全身麻酔のメカニズムについての大きな手がかりを提示し、膜脂質説と合致するものだったという。分子レベルでのメカニズムについてはようやく解明の道が開かれた段階にあるようだ。

 

 参考:100年以上の試行錯誤を経てようやくわかった、「全身麻酔」のメカニズム

 https://logmi.jp/business/articles/323287


※B 出典:The MAK-Collection for Occupational Health and Safety - 2012 -  - Diethyl ether  MAK Value Documentation  1999.pdf
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1002/3527600418.mb6029e0013

こちらのレポートの3ページ目に

"Although inhaled diethyl ether appears rapidly in the bloodstream, its good solubility in blood means that distribution into the tissues, organs and the CNS takes place only slowly. Thus the time for induction of anaesthesia in man even with pulmonary flooding(diethyl ether concentrations of 100000–200000 ml/m3) is as much as 15 minutes(reviewed in: Büch and Büch 1992)."とある。

この部分をDeepLの機械翻訳にかけた翻訳文(筆者により修正)を以下に示す。

"吸入したジエチルエーテルは速やかに血流に現れるが、血中溶解度が高いため、組織、臓器、中枢神経系への分配はゆっくりとしか行われない。従って、肺活量が多い場合でも麻酔の導入に要する時間(ジエチルエーテル濃度100000-200000ml/m3)は15分程度である。(review in: Büch and Büch 1992)."



※他の参考文献等:

『新版 漢方の歴史 中国・日本の伝統医学』

『医学は歴史をどう変えてきたか』

『東と西の学者と工匠』ジョゼフ・ニーダムの中国科学技術史講演集

フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿 『脳を切る 悪魔の手術ロボトミー』、『麻酔 欲望の医療革命』※NHKのテレビ番組

2020年7月24日金曜日

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった」というネット俗説の検証


序論

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった。そのため暴風雨(台風)により多くが沈没した」という説は現在でもネット上の一部の界隈でまことしやかに語られ流布している。しかし、Wikipediaの元寇の記事やヤフー知恵袋では「実際は高麗製の船は頑丈だった。なので高麗製の船はほとんど沈没していない」とする真逆の言説も見受けられる。確かに手元の資料を見る限り「高麗製の船は手抜きだった」とは一切記載がないし、むしろ「高麗製の船は頑丈だった」という全く逆の記述が見られる。一見すると情報が錯綜しているように見える。そこで、自分自身の情報整理も兼ねてこの"ネット上の俗説"を検証してみようと思う。

本論

前述の通り、手元の信頼できる資料を数冊確認した限りでは、「高麗製の船は手抜きだった」という記述は一切見当たらない。むしろ「高麗製の船は頑丈だった」との全く逆の記載が見受けられる。たとえば、『元寇 蒙古襲来の内部事情』(原著1965年、P.143)という本には

台風によって、東路軍(※筆者注 元・高麗軍)・江南軍(※筆者注 旧南宋軍)ともに大損害をうけたが、江南軍の艦船のできがわるく、こわれやすかったのに比して、東路軍のそれが堅牢であったためである。前者は中国(※筆者注 旧南宋地域のこと)でつくられ、後者は高麗でできた。中国人の工匠が手をぬいたためかと思う。
 との記載がある。ただし、これは弘安の役に関しての記載である。中学校の歴史の教科書のおさらいになるが、一口に元寇と言ってもモンゴルによる第一次日本遠征(文永の役)と第二次遠征(弘安の役)と二つのeventに分かれる。何者かのおっちょこちょいによりこの二つが混同されてしまい、ネット上の情報が錯綜しているのかもしれない。いずれにしろ、この記述が正しければ手抜きで建造されたのは実際は高麗製の船ではなく江南製(旧南宋製)の船ということになる。伝言ゲームでいつの間にか話がすり替わってしまった可能性がある。

別の文献を調べてみる。『沈没船が教える世界史』の第3章「沈没船が塗り替えるアジアの歴史」には

鷹島では韓国(※筆者注 高麗のことを指すと思われる)からの船だと思われる部材が、数例を除いてほとんど発見されていない。発見された遺物もほとんど中国(※筆者注 旧南宋地域のことを指すと思われる)のものばかり。つまり、韓国から来た船団はほとんど被害に遭っていないか、たまたま調査された海域には韓国の船がなかったことになる。記録にも、最も大きな被害を受けたのは中国からの軍艦で、韓国からの船団はあまり被害を受けていないとある。

とあり、文献資料からも暴風雨により大きな被害を受けたのは江南軍の船団だとわかるが、それが考古学的遺物の調査研究により裏付けられている、としている。ただ、この本は2012年出版の本で、2011年の鷹島での元寇の沈没船発見以降の研究動向については一切言及がない。なので、2017年出版と比較的新しい『蒙古襲来と神風』(P.111)を参照してみる。なお、この本では沈没船についての考察もなされている。

東路軍と江南軍の被害の差は相当あって、原因は船の堅牢性の差にあった、と記述されている。元の王惲による『汎海小録』には、「ときに大小の戦艦の多くが波浪のためにみな揃って触れた。しかし高句麗(※筆者注 高麗のこと)の船は堅牢であったから、みな帰ることができた※1。8月5日である」とある。博多湾と鷹島の地理的差異もあっただろう。」
※1 ”みな帰ることができた”というのは誇張表現だろう。別の史料である『高麗史』の記録を基にすれば帰還率は約72%だ。また未帰還者28%も溺死者だけでなく、病死者や戦死者、戦争捕虜も含まれているのでほとんどが暴風下でも沈没しなかったと推測できる。

 とあり、この本も高麗製の船はむしろ頑丈であり、それが東路軍と江南軍の被害の差につながったという趣旨である。

以上のように手持ちの3冊の文献を当ってみたものの、「高麗製の船が手抜きだった」という記述は一切なく、むしろ弘安の役に関して言えば「高麗製の船は頑丈である」という真逆の記述が見受けられた。

次は「高麗製の船手抜き説」を紹介しているサイトをいくつか検証してみる。こちらのサイトでは

難破した船は、高麗が突貫工事で造ったものでした。
それだけに、手抜き工事が多く、船としては十分なものではなかったといわれています。
と文永の役に関して解説している。ただ参考文献を一切挙げていないので検証が難しい。しかし、よく読んでみると同じ項目で「蒙古軍が、たった1日だけ戦って引き上げた」との記述がある。これは『八幡愚童訓』にしか記載がなく、実際は歴史書の中には一切記載がない。例えば『関東評定伝』には数日後に大宰府付近で戦闘があったことが明記されている(『蒙古襲来と神風』P.45)。「1日だけ戦って引き上げた」というのは現在では否定されている説である。そして「沈没した船の数200余隻、死亡者数3万人の記録があります。」とあるが、『高麗史』には未帰還者は1万3500余人とあり、数字が食い違っている。3万人の部隊で攻めてきて3万人死亡であればほぼ全滅であるが、信頼できる資料には「元・高麗連合軍は全滅した」との記載は一切ないのでおそらくこの数字は誤りであろう。このように他の記述も現在では否定されている説を踏襲したり出典不明瞭なので「高麗船手抜き説」も推して知るべし、だろう。

次に産経新聞の記事『元寇・文永の役(下) 元寇「新説」…蒙古・朝鮮連合軍900隻「消滅」の最大理由は朝鮮の「手抜き建造」か』を読んでみる。

関係個所を拾ってみると

原因については“神風”、つまり天候が有力視されるが、高麗が建造したとされる船の構造にも重大な欠陥があったともいわれている。
 
    船の建造は若い作業員を大量動員して突貫に次ぐ突貫だった。…(中略)…一瞬にして船団が消えた原因は、突貫による手抜きで造られた船底の浅い高麗船が、強風と高波とそれに伴う船同士の衝突に耐えられなかった可能性が高い。…(中略)…日本が確認した元・高麗軍の座礁船は約150隻にのぼったことから、たぶん全滅に近い被害だったのだろう。

 とある。こちらの記事も手抜き説の出典が不明で検証が難しい。信頼できる資料にも「半年で900隻の建造を命じられた」とあるので突貫工事で納期設定もかなり無理があったようで品質も悪い船が出来上がったのかもしれない。だが、信頼できるどの資料にも「手抜き」とまでは言っていない。「元・高麗連合軍の座礁船が150隻」とあるが、全900隻中であれば17%で一部に過ぎないし、水汲み用小舟300隻と敵前上陸用スピード小艇300隻を除く大型の外洋船300隻であれば半分と言える。150隻というのがスピード小艇等の含む数字なのかどうか不明なのではっきりとしたことは言えないが、筆者個人としては座礁船は小舟等を含んでいる数字と捉えた方が自然なのではないかと思える。それに、暴風雨や戦闘等で使用不能になった船も多数あるはずでそれを「手抜き」によるものとするのは論理の飛躍だろう。実際、弘安の役での台風直撃の際では日本の船にも被害が及んでおり、使用不能になる船が続出で船不足に陥っている。

次にサーチナの記事を見てみる。
"元寇で日本が勝利したのは、神風ではなく高麗人の「手抜き工事」が理由だった=中国メディア 2018-03-06 15:12"

こちらの記事は今日頭条という中国版スマートニュースでの記事の転載のようだ。ちなみにニコニコニュースや5ちゃんねるの記事もこれの「転載の転載」なので孫引きのような形になっている。記事中には

そのうえで、「1980年代、米国の考古学者がモンゴル船の残骸を分析したところ、船の多くで使い古した材料などが用いられるとともに、著しい手抜き工事が行われていたことを発見。台風はもとより、平時でもバラバラになりかねない代物だったという」と紹介している。
とある。そもそもサーチナの記事は基本的な事実関係がメチャクチャでこの印象だけで信用するに足らないと判定してもいいレベルなのだが(例えば文永の役では日本軍が10万人だったと記載があるが、それは『元史』にしか記載がない明らかな誇張表現である。防衛体制も十分整っていない上に九州の御家人が中心なのでそこまで人数をそろえることは不可能だ。中国の歴史研究の水準はこの程度なのだろうか?)、一応「高麗船手抜き説」の解説箇所のおかしさを指摘しておこう。

まず、サーチナの記事は学者名の明記がない。「1980年代の米国の考古学者」とは誰の事だろうか?ここをぼかしてしまってはどうしようもない。これでは人文系学部の1年生に課されるレポートレベルですらない。こんなものをレポートとして提出したら学部1年生ですら単位を落としてしまうレベルの低いものである(大学の教員が書いた新書には参考文献をろくに明記していないものもたまに見かけるが、それは大人の事情で内緒にしておこう)。ただ、論文執筆のルールをマスメディアの記事に安易に転用すべきではないかもしれない。アカデミーとジャーナリズムの世界では業界が違うからだ。たとえばマスメディア業界では「取材源の秘匿」というのは基本的な倫理規定とされる。この原則が破られると情報提供者に被害が発生し得て結果的に多くの人が情報を開示したがらなくなってしまうからだ。公益通報者保護法の立法趣旨と同じ発想である。しかし、今回の場合はどう考えてもその例には該当せず、むしろ明記しなければいけない事例だろう。よってサーチナの記事は当該説の妥当性云々というよりも、それ以前に手続き違反(出典の明記をしない)で「アウト!」であろう。

 また、サーチナの記事では文永の役で使用した船が手抜きだったというような趣旨だが、日本側の研究では文永の役での暴風雨は元軍撤退途中に起こったとしており、勝敗とは直接関係がない。記事には

そもそも高麗人がモンゴル人に対する報復のために手抜きの船を作ったことが、2度にわたり全軍壊滅した原因になったのだ

とある。前述の通り少なくとも弘安の役では高麗製の船は頑丈だった、むしろ江南製の船が手抜きの疑いあり、という評価なのでこの記述は明らかな誤りである。百歩譲って仮に文永の役では「高麗製の船が手抜きだったから沈没した」のだとしても、撤退途中に暴風雨が来た以上勝敗には関係のない話である(滞在中に暴風雨がきたという説も存在する)。よって高麗製の船の手抜き説はモンゴルによる日本遠征の失敗の原因にはなり得ない。

また、最近の沈没船の調査では実際は江南製の船は頑丈だったのではないかとし、手抜き説を疑問視する見解も出されている。

元寇船の底板、二重構造 粗製乱造でなかった? 琉球大調査
読売新聞(2012年10月10日16時53分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm (リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20121012225032/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm?
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、 昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造に なっていたと発表した。

 韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。

 これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの 見方もあったが、調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。 丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。

結論

以上みてきた通り、「高麗船手抜き説」は手元の信頼できる資料には一切記載がなく、ネット上の記述も出典不明で検証が著しく困難だということが分かった。そこで筆者としては「弘安の役で江南製の船がこわわやすかったため多くの船が沈んだ。手抜きの疑いあり」という説が「文永の役では高麗製の船が多く座礁した」というのと混同されて結びつき生まれた”俗説”ではないかと結論付けたい。

このように伝言ゲームで話がすり替わっていく例としては豊川信用金庫事件が有名だろう。
(※女子高生同士の会話で「信用金庫は危ないよ」とからかいのつもりで発した発言が伝言ゲームでニュアンスがすり替わってデマが広がり、最終的に取り付け騒ぎにまでなった事件である。詳しくはリンク先のWikipedia記事を参照のこと。)
また、この件で筆者の高校時代に「耳にピアスの穴をあけると失明する。知り合いの子がそういうことをして後悔した」と音楽の教師から聞いた話を思い出した(20年も前の話なので細部に関しては記憶がすり替わってしまっているかもしれない)。数年経って調べてみると完全なウソ(耳に視神経など全く通っていない)で、都市伝説の類だと分かったことを覚えている。筆者の見立てでは、おそらくこの教員は「ピアスをつける若者」に対する嫌悪感があって「ピアスをつけると失明する」という話に飛びついたのだろう。そしてこの話に箔をつけるために(信憑性を持たせるために)無意識のうちに知り合いの経験談に仕立て上げてしまったのだと思われる。同じように、本来は「江南製の船が手抜きの疑いあり」という話が高麗製の船の話にすり替わっていき流布していったのではないかと考えらえる。この経路のどこかの時点で嫌韓感情や中国メディアのポジショントークが一定の役割を果たしただろう。そして話に箔をつけるために「1980年代にアメリカの考古学者が唱えた」と仕立て上げることを無意識のうちにおこなってしまったのではないだろうか。もちろんその考古学者が実在しており実際の説とニュアンスが変わらず流布しているのであればこの見立ては崩れるのであるが。しかし存在証明と非存在証明の非対称性を考えると、筆者に立証責任はない(悪魔の証明)。出典が不明な以上、手抜き説は"ネット上の俗説"(都市伝説)と結論付けることにしたい。

2020年7月7日火曜日

NHK スペシャル『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 』を視聴した感想

前回に続き、『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ』を視聴した感想を以下に箇条書き。

・「これまで日本国内の出来事として描かれてきた戦国時代。ところが今、世界各地で新発見が相次いでいます。そこから、日本とヨーロッパの覇権争いが深く結びついてきた事が分かってきました。」とナレーション。「国内の出来事として描いてきた」というのは大河ドラマや歴史秘話ヒストリア等のNHKの番組的には、という事だろう。大航海時代が始まって、地球の裏側と直接人の行き交うことが可能になった時代(いわゆる第一次グローバル化)なのだから、あの時代の「地球規模での意外な繋がり」は詳しい人なら分かりきっていることではあるが。それに山田長政の話は江戸時代から知られているはずで高校日本史の教科書にも載ってるはずだし(※話に尾ひれついていて「伝説化」してるし実在を疑う学者もいるので眉唾物だが)、アンボイナ事件も高校世界史の教科書に載っている(※日本人傭兵の関わりまでは載っていなかったかも)。そして戦前にはタイオワン事件が戦意高揚のためにピックアップされたりしている。個別の詳細な事柄が新史料発見によって明らかになってきた部分は幾つかあるのだろうが、大枠の話は相当前から知られた話で、今更何をかいわんやという話だ。「遺伝法則の再発見」ならぬ「歴史の再発見」とでも言うべきか。NHKスペシャルの視聴者層の幅広さから考えると「戦国時代の地球規模での意外な繋がり」を伝える意義はあると思うが、「新発見ありました」と誇大広告気味に伝える必要は全くない。

・「日本は当時世界の3分の1の銀を産出していた銀大国。その銀を巡ってスペインとオランダが世界の覇権を争った」みたいなナレ。「覇権レース」にはイギリスも存在したし、この時期はポルトガルはスペインと同君連合だったとはいえこの後再独立してオランダに奪われたブラジルの砂糖生産地を取り返したりしているわけで、プレーヤーがスペインとオランダだけってのは単純化し過ぎでは‥と色々突っ込みたくなってきた。あまりに複雑化させるといろんな視聴者が見ている以上、混乱してきて伝えたい事が伝わないという本末転倒になってしまうというのは分かるが。それでも所々の大袈裟な表現で引っかかってモヤモヤする。

・ポメランツが登場。著書を読んだことはあるが、姿や肉声までは見た事は無かったので「こんな顔してこんな肉声している人だったんだ」と親近感が湧き感慨深かった。

「戦国時代の日本はまさに世界史の最前線だったのです。」
‥ちょっとリップサービスが入ってるかな。

「ヨーロッパ中心の歴史観を改めなければならないでしょう」
‥それ、100年以上前からずっと言われ続けてますね(笑)。シュペングラーの『西洋の没落』から始まってトインビーやマクニール辺りまでずっと断続的に。まあ著書を読んだ印象や日本の学者の間の評判で判断る限り、その中でもポメランツはアンチヨーロッパ中心史観に逆張りし過ぎな気もするが(笑)

・オランダが日本まで進出し徳川家康に営業攻勢をかけてきた背景として「スペインから独立したオランダは富国強兵のために海外進出した」とナレーション。
う~ん、17世紀辺りはオランダの貿易の中心はバルト海や北海の域内貿易がメインだし、元々フランドル地方は中世後期頃から商工業の先進地だし、富国強兵のためにわざわざ日本に営業攻勢にくるというのは違和感がある。日本の「明治維新」だって国内改革→海外進出だから時系列が違う。ポルトガルやスペインは海外進出し過ぎて逆に本国が疎かになってしまった感があるし。

・海外進出の動機は各々

オランダは商業目的
スペインは布教と領土

と解説していた。少し単純化し過ぎでは?‥とも思ったが、あながち間違いでもないか。比重で言えばその目的がメインなのはその通りだろう。正確に言うとオランダ東インド会社は利益優先(今のインドネシア辺りで細細と布教もやっていたりするがスペイン並に本腰入れてなかったはず。)だが、西インド会社は布教も目的の一つだった。まあ西の方は東に比べて規模も小さいし振るわなかったが。現在の旧オランダ領と旧スペイン領のキリスト教徒の割合見ても両国の布教の本気度の違いがはっきりと分かるね。旧スペイン領の地名(サンフランシスコとかロサンゼルスとかサンアントニオとかアスンシオンとかサンティアゴとか)見てもカトリック由来が多いしね。

当時の統計ではスペインの海外進出者の9割は宗教関係者と公務員(宣教師や役人、兵士)で占められており、残り1割は自由業という区分だった。その自由業には医者も含まれている。商人の割合は僅かに5%だった。(オランダは未調査。)こういう数字からも両国の違いは浮かび上がってくる。来日した面々見てもスペイン・ポルトガルは宣教師ばかり目立つし、オランダ・イギリスの面々は全然様相が違う。家康の外交顧問となった三浦按針(ウィリアム・アダムズ)は船大工や航海士だし(スペインの無敵艦隊を破ったアルマダ海戦では船長として参加していた)、オランダは東インド会社関係者が目立つし。


・「スペインに取って代わって世界の覇権を握ったのはオランダ」みたいな論調だったが、スペインやポルトガルががっちり基盤を固めていた新大陸の大部分・西アフリカ・フィリピンあたりはオランダは手が出なかった。ブラジル沿岸部の砂糖生産地はオランダが奪った後ポルトガルが奪い返してる。これは正しいか、間違いかというより「物事の捉え方」の問題かもしれない。その捉え方も注意を要するが。領土主張はあくまでヨーロッパ向けの領有宣言(無主地先占ルール)であって、実効支配が伴っているとは限らない。結局フィリピンもアメリカに譲るまでスペインの実効支配が及ばなかった地域が存在していたし。

2020年6月30日火曜日

NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本― (1)を視聴した感想

NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本― (1)「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」を視聴した。

以下、感想を箇条書き。


・長篠の戦いや山崎の戦いの背後にはカトリックの宣教師達が暗躍していて、勝敗の決定に重要な役割を演じたという論調だったが、言い過ぎだろう。どう贔屓目に見ても勝敗を左右するほど宣教師の役割は大きくない。twitterの戦国クラスタ界隈では評判がボロクソだったと聞いたが、さもありなん。長篠の戦いで使われた信長側の鉄砲玉の原料である鉛はタイから輸入していたものが多かったようで、その交易には宣教師が関わっていたらしい。だが、いわゆる大航海時代以前は琉球が東南アジアと東アジアの間の中継貿易に重要な役割を担っていたりしたわけで、ポルトガルやスペインが担う必然性は全くない。それよりも重要なのは信長が南蛮貿易の拠点の堺を抑えてたことが大きいだろう。また、山崎の戦いに関しても、イエズス会がキリシタン大名の高山右近に秀吉に味方するように説得したことが勝敗を左右した、というような論調だったが、これもこじつけに過ぎない。摂津衆の動向は重要だったのは事実だが、摂津衆トリオの内キリシタンだったのは右近だけで中川清秀と池田恒興は非キリシタンだし、明智光秀も宣教師を通じて右近を味方に引き入れようとしていたはずだし、筒井順慶や丹後の細川等の他の勢力の動向も重要だった訳である。自説に都合のよい事実のみを掲示するというのは良くあるパターンだが、この程度なら戦国時代に詳しい人には簡単に見破られてしまう程レベルが低い。 これはイエズス会が自分の手柄で秀吉を勝利に導いたんだというある種の自慢話を無批判に垂れ流しているか、番組のテーマにこじつけて無理やり説明しているに過ぎない。結論ありきで番組作ると「何でもテーマにこじつけて説明してしまう」という典型的な例になってしまっている。また、イエズズ会の資料ばかり見ると「当時のイエズズ会は世界を動かしていた」みたいな錯覚(偏った見方)に陥ってしまったというのもあるかもしれない。

・「仏教勢力(石山本願寺)の排除に宣教師が積極的に関わっていた」らしい。織田信長は高山右近を中心としたキリシタンの援軍1万人を得て本願寺の武装解除に成功したという。確かに石山(大坂)と高槻は近いし、近くの堺は南蛮貿易の拠点で宣教師の出入りや教会や神学校も幾つかあったはず。そういう面から考えると石山合戦での宣教師やキリシタン大名の役割は確かに大きかったかもしれない。こうしてみると石山合戦はそれなりに説得力があるが、長篠や山崎はこじつけだと思える。大風呂敷を広過ぎた。

・「戦国時代の日本は軍事的に急速に発展し、世界一の銃大国になった」らしい。ノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』が元ネタだろう。この点については、ノエル・ペリンの著作は未読だし詳しく調べたこともないので評価しようもない。ただ、平原やなだらかな丘陵が多いヨーロッパは大砲も重要で、平地が少なく急峻な山地が多い日本は地形的に機動性の劣る大砲は適さないみたいで大砲を使う戦術は発達しなかった。時代は少し前で、地域も違うが、中東版の長篠の戦いである「チャルディラーンの戦い」やインド版の長篠の戦いである「第一次パーニーパットの戦い」でも大砲は重要な火力兵器だったので、大砲戦術が発達しなかった日本は珍しいと言えるかもしれない。というか、火縄銃は日本刀製造の鍛造の技術の応用(転用?)で国産化がスムーズだったが、大砲は鋳造技術が必要だったので当時の日本の技術では国産化は不可能だったはず。(※鍛造では大型化に限界があるため。だから大砲だけは最後まで輸入に頼った。大坂の陣で家康が用いて淀殿の侍女を死に追いやった大砲はイギリス製。また、島原の乱において海上から大砲で擁護射撃をしたのはオランダ船であった。) また、海軍での火力は大砲がメインだったので、そういう意味では当時の日本の「海軍力」という意味でも疑問符が付く。よってそれら大砲も含めた総合的な火力ではどうだったか分からない。おそらく日本よりも総合火力に勝っていた可能性があったのはスペインやオスマン帝国ぐらいだろう。当時人口が世界一だった中国(明)に関しては銃所持が多かったとは聞かない。中国製の青銅銃は数発撃っただけで銃口が損傷して使いものにならなくなる等耐久性に問題があったようだ。だから中国は銃の数もスペックも比較的劣っていたと思われる。(※文禄・慶長の役では明軍は日本の火縄銃に苦戦した。その時の日本の戦争捕虜を火縄銃部隊に編成し、北方の遊牧民との戦いに当たらせる等重宝した。)  以上の事を考慮すると、「世界一の銃大国」だったという宣伝文句は総合的な火力という点で見ると疑問符がつくが、当時世界的にも有数の火力を持っていた銃大国だったのは間違いないだろう。

・秀吉の朝鮮出兵で先陣にキリシタン大名が多かったが、それはキリスト教のイメージが急速に悪化して伴天連追放令を既に出していた秀吉が意図的にそうしたとしたうえで「キリスト教の影響力を削ごうとする秀吉の戦略だった」というポルトガルの学者の説を紹介していた。



しかし、大きな違和感がある。実際は朝鮮に近い九州の大名を先陣にしたという兵站面が理由だろう。だからキリシタン大名が多かったのは偶然であり、意図した結果ではない。『素人は戦略を語り、プロは兵站を語る』というクレフェルトの格言が身に染みる。当初はこの言葉は上から目線で偉そうな感じであまり好きではなかったが、なるほどこの手の輩が跋扈しているという文脈で出てきた言葉なんだと考え直した。


・「世界大戦争が勃発する直前だった!」と煽っていたが、当時の交通・輸送、通信の技術水準を考えるとコストも時間もかかり過ぎて莫大なコストかけるだけのメリットは薄いので、大戦争起こす動機に乏しい。というか当時のポルトガルは海外に進出しすぎて本国の人口が減って逆に衰退の一因になったという説もあるぐらい。当時のポルトガルなんてせいぜい人口150万人の小国に過ぎない。戦国時代の大大名クラスでしかなく、上洛前の信長や武田信玄、毛利元就の最盛期の石高と同じ程度の国力で、九州統一直前までいった島津の最盛期(200万石)や北条の最盛期(250万石)にすら及ぼない。だからこの程度の国力(人的資源)では、アフリカやアジアの交易拠点である商館兼要塞という「点の支配」とそれらを結ぶ航海ルートの「線の支配」を維持するので精一杯だった(新大陸のブラジル除く)。しかも、あまり知られていない事だが、この後の時代でオスマン帝国がポルトガルに奪われてたアデンを取り返して紅海経由の香料流通ルートが復活したり、インド洋の制海権をオマーンが奪取して東アフリカに影響力を及ぼしたりとイスラム側の巻き返しもあった(※エチオピア正教会とか『シヴァの女王伝説』等、昔からパレスチナ・アラビア半島と東アフリカは密接な交流があった。アジアやアフリカという区分は古代ギリシャに由来する恣意的な区分に過ぎない)。ポルトガル程度の小国では多方面に対処しきれずとても太刀打ちできなかった。ではなぜポルトガル系と言われるイエズス会が幅を利かせていたのかというと、カトリック圏の組織だからカトリックが強い南西ヨーロッパから広く人材等のリソースを集めることができたからである。そもそもイエズス会が結成されたのはパリ大学だし(義兄弟による「桃園の誓い」‥ではなく創設メンバーによる「モンマルトルの誓い」)、創設メンバーの多くはスペイン人だったし(内訳はスペイン人5人、ポルトガル人1人、フランス人1人)、本部は結局ローマに落ち着いた。来日経験のあるイエズス会の宣教師の出身を見ると、オルガンティノやヴァリニャーノは今のイタリア出身だし、ザビエルやコスメ・デ・トーレスはスペイン出身なのでポルトガル人以外も数多くいたのである。だから、イエズス会という組織はポルトガルと結び付きポルトガル国王の庇護を得て布教していたものの、基本的にローマ・カトリックの下部組織なので小国の色々な厳しい資源制約には縛られなかったのである。


また、スペインもスペインでマニラの建設も始まったばかりのはず。実現可能性はとても低くほとんどアジア征服はほぼ口先だけだと思える。計画倒れなのは当時の情勢とか技術水準とかいくつかの要因を考慮すると当然の成り行きだったのではないか。秀吉のアジア制覇も結局、朝鮮での足掛かりすら維持できずに失敗したわけで。ただ、これよりも100年以上後の七年戦争はガチの世界大戦争だったといえるかも。北米のインディアンやムガル帝国も巻き込んだ英仏間の覇権をめぐる戦争で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカという四大陸にまたがって連動しておきた初の「グローバル規模の戦争」だった。なので、ある意味では七年戦争こそが「第一次世界大戦」だったといえるかもしれない。いずれにしろ、この当時の西葡は七年戦争の頃の英仏のように各大陸に地盤をきっちり固めていたともいえないし、状況が異なるので実現可能性はやはりかなり低そうだ。


‥とここまではボロクソに批評してきたが、評価できる点もある。一つは「これまで長篠の戦いは織田の鉄砲隊 VS 武田の騎馬隊と言われてきたが、実は武田側にも鉄砲隊が存在した」と視聴者に伝えたこと。

実は鉄砲の装備率は織田軍と武田軍も同じぐらいだった。勿論、織田軍の兵数の方が多いから絶対数では織田側が多いが、武田勝頼が鉄砲の重要性をちゃんと認識していたのは長篠以前の勝頼の発給文書からも伺える。ただ、火薬の原料の一つである硝石は日本では取れないので、輸入に頼るか、人口的に作り出すしかない。人口的に作る技術は未発達だったはずだから、前述したように堺を抑えていた信長が硝石の流通を制御して武田に弾薬が渡らないようにしてた(経済封鎖してた)ように記憶している。そこはあまり詳しくないし、記憶があやふやだが‥。だから装備率は変わらなくても武田側は火薬は不足気味だったかもしれない。

もう1点は「実は多くの宣教師が布教だけでは無く、日本や中国の征服計画に積極的に動こうとしていたこと」を広く知らしめたこと。筆者もその辺の認識はあやふやで宣教師の中でも意見が割れていたように思っていた。だが、この番組にインスパイアされて番組のネタ元の1つである中公新書の『戦国日本と大航海時代』の関係箇所を読んでみると、実は多くの宣教師が征服計画に積極的で疑問視していたのは少数派だったようだ。また、番組でも触れられていたが、「中国人はなかなか改宗に応じないので日本の軍事力を利用して中国を征服する」という計画があった。これを最初聞くと斜め上の発想で仰天すると思うが、敵対的な民族やら派閥を味方にして滅亡においやったインカやアステカの成功例をなぞるつもりだったのだろう。勿論、当時の日本も明(中国)も戦争捕虜の心臓を生きたままえぐって生け贄にするような事はしていないので同じ手は通用しないのであるが。

2020年3月9日月曜日

19世紀頃の各国の識字率


【東アジア】

日本:27.5-30% 
ドーアによる1870年頃の推測値。著書には「どんな資料から推定しても、1870年頃には各年齢層の男子の40-45%、女子の15%が日本語の読み書き算数を一応こなし、自国の歴史、地理を多少はわきまえていたとみなしてよさそうである。」とある。
出典:『学歴社会 新しい文明病』 P.55,  R.P.ドーア

清(中国):16-27.5%
Sakakida Rawskiによる推測値。著書には「18世紀から19世紀にかけては、おそらく男が30-45%, 女は2-10%がいくらかの読み書きが可能であった。」(拙訳)とある。
出典:『Education and Popular Literacy in Ch'ing China』P.23, Evelyn Sakakida Rawski, 1979年

なお『詳説 世界史研究』(P.402, 2000年発行)では清末の識字率は10%以下となっているが、出典不明であり李氏朝鮮と比べてもあまりに低すぎると思われるので採用しなかった。

李氏朝鮮:16-20%
朝鮮総督府による国勢調査(1930年)からの筆者による大雑把な推測。
(1930年時点でハングルの読み書きができるものの割合が60歳以上の朝鮮人で約20%)
出典:『朝鮮国勢調査報告. 昭和5年 全鮮編 第1卷 結果表』,  国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号63

推測の際の参考サイトは以下になる。
『データで見る植民地朝鮮史』
"併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16~20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。"

李氏朝鮮末期の1894~1897年にかけて4度の調査旅行を行ったイザベラ・バードは著作で「小集落は別として、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校と行っても私塾である。家々でお金を出しあって教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟に限られ、学習するのは漢文のみで、これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足掛かりなのである。諺文[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、私の観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。」と記しており、少なくとも首都ソウルの近辺である漢江沿いでは村組合型の書堂(ソダン)が各村に存在し、多くの男が識字能力を備えていたことがうかがい知れる。
出典:『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著、時岡敬子訳, P.111

【ヨーロッパ】

欧州諸国の数字の出典は全て以下になる。
『読み書きの社会史 文盲から文明へ』, カルロ M.チポラ, 統計補遺のP.2

スウェーデン:90%
調査年1850年。

プロイセン(ドイツ):80%
調査年1849年。

イングランド・ウェールズ:67-70%
調査年1851年。

フランス:55-60%
調査年1851年。

スペイン:25%
調査年1857年。

イタリア:20-25%
調査年不明。筆者の主観では低すぎる気もするが南北格差が影響している?

ロシア:5-10%
調査年1850年。あまりにも低いので驚いた。ただ岩倉使節団のペテルブルク訪問では「貴族の館だけは立派だが、それ以外はわびしい」という報告があり、未だ農奴制が強固である事と矛盾しない。

【その他】

アメリカ:80%
合衆国センサス(1870年)。
白人88%、非白人20%。
出典:『読み書きの社会史 文盲から文明へ』, カルロ M.チポラ, P.83

メキシコ:20%
1910年頃。
出典 : 『概説メキシコ史』, 有斐閣選書, P.100

トルコ:10.6%
1927年、男17.4%,  女4.7%。
出典 : 『近代中東・イスラーム世界におけるプリント・メディアの歴史と構造』P2, 平野淳一, 情報処理学会研究報告

エジプト:7%
1907年、男13%, 女1%。
出典 : 『近代中東・イスラーム世界におけるプリント・メディアの歴史と構造』, P5, 平野淳一(情報処理学会研究報告)
リンク先は上記に記載。

※インド:3.5%
1881年。
出典:『A students' history of education in India (1800–1973)』SYED NURULLAH, J. P. NAIK