2020年7月24日金曜日

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった」というネット俗説の検証


序論

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった。そのため暴風雨(台風)により多くが沈没した」という説は現在でもネット上の一部の界隈でまことしやかに語られ流布している。しかし、Wikipediaの元寇の記事やヤフー知恵袋では「実際は高麗製の船は頑丈だった。なので高麗製の船はほとんど沈没していない」とする真逆の言説も見受けられる。確かに手元の資料を見る限り「高麗製の船は手抜きだった」とは一切記載がないし、むしろ「高麗製の船は頑丈だった」という全く逆の記述が見られる。一見すると情報が錯綜しているように見える。そこで、自分自身の情報整理も兼ねてこの"ネット上の俗説"を検証してみようと思う。

本論

前述の通り、手元の信頼できる資料を数冊確認した限りでは、「高麗製の船は手抜きだった」という記述は一切見当たらない。むしろ「高麗製の船は頑丈だった」との全く逆の記載が見受けられる。たとえば、『元寇 蒙古襲来の内部事情』(原著1965年、P.143)という本には

台風によって、東路軍(※筆者注 元・高麗軍)・江南軍(※筆者注 旧南宋軍)ともに大損害をうけたが、江南軍の艦船のできがわるく、こわれやすかったのに比して、東路軍のそれが堅牢であったためである。前者は中国(※筆者注 旧南宋地域のこと)でつくられ、後者は高麗でできた。中国人の工匠が手をぬいたためかと思う。
 との記載がある。ただし、これは弘安の役に関しての記載である。中学校の歴史の教科書のおさらいになるが、一口に元寇と言ってもモンゴルによる第一次日本遠征(文永の役)と第二次遠征(弘安の役)と二つのeventに分かれる。何者かのおっちょこちょいによりこの二つが混同されてしまい、ネット上の情報が錯綜しているのかもしれない。いずれにしろ、この記述が正しければ手抜きで建造されたのは実際は高麗製の船ではなく江南製(旧南宋製)の船ということになる。伝言ゲームでいつの間にか話がすり替わってしまった可能性がある。

別の文献を調べてみる。『沈没船が教える世界史』の第3章「沈没船が塗り替えるアジアの歴史」には

鷹島では韓国(※筆者注 高麗のことを指すと思われる)からの船だと思われる部材が、数例を除いてほとんど発見されていない。発見された遺物もほとんど中国(※筆者注 旧南宋地域のことを指すと思われる)のものばかり。つまり、韓国から来た船団はほとんど被害に遭っていないか、たまたま調査された海域には韓国の船がなかったことになる。記録にも、最も大きな被害を受けたのは中国からの軍艦で、韓国からの船団はあまり被害を受けていないとある。

とあり、文献資料からも暴風雨により大きな被害を受けたのは江南軍の船団だとわかるが、それが考古学的遺物の調査研究により裏付けられている、としている。ただ、この本は2012年出版の本で、2011年の鷹島での元寇の沈没船発見以降の研究動向については一切言及がない。なので、2017年出版と比較的新しい『蒙古襲来と神風』(P.111)を参照してみる。なお、この本では沈没船についての考察もなされている。

東路軍と江南軍の被害の差は相当あって、原因は船の堅牢性の差にあった、と記述されている。元の王惲による『汎海小録』には、「ときに大小の戦艦の多くが波浪のためにみな揃って触れた。しかし高句麗(※筆者注 高麗のこと)の船は堅牢であったから、みな帰ることができた※1。8月5日である」とある。博多湾と鷹島の地理的差異もあっただろう。」
※1 ”みな帰ることができた”というのは誇張表現だろう。別の史料である『高麗史』の記録を基にすれば帰還率は約72%だ。また未帰還者28%も溺死者だけでなく、病死者や戦死者、戦争捕虜も含まれているのでほとんどが暴風下でも沈没しなかったと推測できる。

 とあり、この本も高麗製の船はむしろ頑丈であり、それが東路軍と江南軍の被害の差につながったという趣旨である。

以上のように手持ちの3冊の文献を当ってみたものの、「高麗製の船が手抜きだった」という記述は一切なく、むしろ弘安の役に関して言えば「高麗製の船は頑丈である」という真逆の記述が見受けられた。

次は「高麗製の船手抜き説」を紹介しているサイトをいくつか検証してみる。こちらのサイトでは

難破した船は、高麗が突貫工事で造ったものでした。
それだけに、手抜き工事が多く、船としては十分なものではなかったといわれています。
と文永の役に関して解説している。ただ参考文献を一切挙げていないので検証が難しい。しかし、よく読んでみると同じ項目で「蒙古軍が、たった1日だけ戦って引き上げた」との記述がある。これは『八幡愚童訓』にしか記載がなく、実際は歴史書の中には一切記載がない。例えば『関東評定伝』には数日後に大宰府付近で戦闘があったことが明記されている(『蒙古襲来と神風』P.45)。「1日だけ戦って引き上げた」というのは現在では否定されている説である。そして「沈没した船の数200余隻、死亡者数3万人の記録があります。」とあるが、『高麗史』には未帰還者は1万3500余人とあり、数字が食い違っている。3万人の部隊で攻めてきて3万人死亡であればほぼ全滅であるが、信頼できる資料には「元・高麗連合軍は全滅した」との記載は一切ないのでおそらくこの数字は誤りであろう。このように他の記述も現在では否定されている説を踏襲したり出典不明瞭なので「高麗船手抜き説」も推して知るべし、だろう。

次に産経新聞の記事『元寇・文永の役(下) 元寇「新説」…蒙古・朝鮮連合軍900隻「消滅」の最大理由は朝鮮の「手抜き建造」か』を読んでみる。

関係個所を拾ってみると

原因については“神風”、つまり天候が有力視されるが、高麗が建造したとされる船の構造にも重大な欠陥があったともいわれている。
 
    船の建造は若い作業員を大量動員して突貫に次ぐ突貫だった。…(中略)…一瞬にして船団が消えた原因は、突貫による手抜きで造られた船底の浅い高麗船が、強風と高波とそれに伴う船同士の衝突に耐えられなかった可能性が高い。…(中略)…日本が確認した元・高麗軍の座礁船は約150隻にのぼったことから、たぶん全滅に近い被害だったのだろう。

 とある。こちらの記事も手抜き説の出典が不明で検証が難しい。信頼できる資料にも「半年で900隻の建造を命じられた」とあるので突貫工事で納期設定もかなり無理があったようで品質も悪い船が出来上がったのかもしれない。だが、信頼できるどの資料にも「手抜き」とまでは言っていない。「元・高麗連合軍の座礁船が150隻」とあるが、全900隻中であれば17%で一部に過ぎないし、水汲み用小舟300隻と敵前上陸用スピード小艇300隻を除く大型の外洋船300隻であれば半分と言える。150隻というのがスピード小艇等の含む数字なのかどうか不明なのではっきりとしたことは言えないが、筆者個人としては座礁船は小舟等を含んでいる数字と捉えた方が自然なのではないかと思える。それに、暴風雨や戦闘等で使用不能になった船も多数あるはずでそれを「手抜き」によるものとするのは論理の飛躍だろう。実際、弘安の役での台風直撃の際では日本の船にも被害が及んでおり、使用不能になる船が続出で船不足に陥っている。

次にサーチナの記事を見てみる。
"元寇で日本が勝利したのは、神風ではなく高麗人の「手抜き工事」が理由だった=中国メディア 2018-03-06 15:12"

こちらの記事は今日頭条という中国版スマートニュースでの記事の転載のようだ。ちなみにニコニコニュースや5ちゃんねるの記事もこれの「転載の転載」なので孫引きのような形になっている。記事中には

そのうえで、「1980年代、米国の考古学者がモンゴル船の残骸を分析したところ、船の多くで使い古した材料などが用いられるとともに、著しい手抜き工事が行われていたことを発見。台風はもとより、平時でもバラバラになりかねない代物だったという」と紹介している。
とある。そもそもサーチナの記事は基本的な事実関係がメチャクチャでこの印象だけで信用するに足らないと判定してもいいレベルなのだが(例えば文永の役では日本軍が10万人だったと記載があるが、それは『元史』にしか記載がない明らかな誇張表現である。防衛体制も十分整っていない上に九州の御家人が中心なのでそこまで人数をそろえることは不可能だ。中国の歴史研究の水準はこの程度なのだろうか?)、一応「高麗船手抜き説」の解説箇所のおかしさを指摘しておこう。

まず、サーチナの記事は学者名の明記がない。「1980年代の米国の考古学者」とは誰の事だろうか?ここをぼかしてしまってはどうしようもない。これでは人文系学部の1年生に課されるレポートレベルですらない。こんなものをレポートとして提出したら学部1年生ですら単位を落としてしまうレベルの低いものである(大学の教員が書いた新書には参考文献をろくに明記していないものもたまに見かけるが、それは大人の事情で内緒にしておこう)。ただ、論文執筆のルールをマスメディアの記事に安易に転用すべきではないかもしれない。アカデミーとジャーナリズムの世界では業界が違うからだ。たとえばマスメディア業界では「取材源の秘匿」というのは基本的な倫理規定とされる。この原則が破られると情報提供者に被害が発生し得て結果的に多くの人が情報を開示したがらなくなってしまうからだ。公益通報者保護法の立法趣旨と同じ発想である。しかし、今回の場合はどう考えてもその例には該当せず、むしろ明記しなければいけない事例だろう。よってサーチナの記事は当該説の妥当性云々というよりも、それ以前に手続き違反(出典の明記をしない)で「アウト!」であろう。

 また、サーチナの記事では文永の役で使用した船が手抜きだったというような趣旨だが、日本側の研究では文永の役での暴風雨は元軍撤退途中に起こったとしており、勝敗とは直接関係がない。記事には

そもそも高麗人がモンゴル人に対する報復のために手抜きの船を作ったことが、2度にわたり全軍壊滅した原因になったのだ

とある。前述の通り少なくとも弘安の役では高麗製の船は頑丈だった、むしろ江南製の船が手抜きの疑いあり、という評価なのでこの記述は明らかな誤りである。百歩譲って仮に文永の役では「高麗製の船が手抜きだったから沈没した」のだとしても、撤退途中に暴風雨が来た以上勝敗には関係のない話である(滞在中に暴風雨がきたという説も存在する)。よって高麗製の船の手抜き説はモンゴルによる日本遠征の失敗の原因にはなり得ない。

また、最近の沈没船の調査では実際は江南製の船は頑丈だったのではないかとし、手抜き説を疑問視する見解も出されている。

元寇船の底板、二重構造 粗製乱造でなかった? 琉球大調査
読売新聞(2012年10月10日16時53分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm (リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20121012225032/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm?
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、 昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造に なっていたと発表した。

 韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。

 これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの 見方もあったが、調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。 丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。

結論

以上みてきた通り、「高麗船手抜き説」は手元の信頼できる資料には一切記載がなく、ネット上の記述も出典不明で検証が著しく困難だということが分かった。そこで筆者としては「弘安の役で江南製の船がこわわやすかったため多くの船が沈んだ。手抜きの疑いあり」という説が「文永の役では高麗製の船が多く座礁した」というのと混同されて結びつき生まれた”俗説”ではないかと結論付けたい。

このように伝言ゲームで話がすり替わっていく例としては豊川信用金庫事件が有名だろう。
(※女子高生同士の会話で「信用金庫は危ないよ」とからかいのつもりで発した発言が伝言ゲームでニュアンスがすり替わってデマが広がり、最終的に取り付け騒ぎにまでなった事件である。詳しくはリンク先のWikipedia記事を参照のこと。)
また、この件で筆者の高校時代に「耳にピアスの穴をあけると失明する。知り合いの子がそういうことをして後悔した」と音楽の教師から聞いた話を思い出した(20年も前の話なので細部に関しては記憶がすり替わってしまっているかもしれない)。数年経って調べてみると完全なウソ(耳に視神経など全く通っていない)で、都市伝説の類だと分かったことを覚えている。筆者の見立てでは、おそらくこの教員は「ピアスをつける若者」に対する嫌悪感があって「ピアスをつけると失明する」という話に飛びついたのだろう。そしてこの話に箔をつけるために(信憑性を持たせるために)無意識のうちに知り合いの経験談に仕立て上げてしまったのだと思われる。同じように、本来は「江南製の船が手抜きの疑いあり」という話が高麗製の船の話にすり替わっていき流布していったのではないかと考えらえる。この経路のどこかの時点で嫌韓感情や中国メディアのポジショントークが一定の役割を果たしただろう。そして話に箔をつけるために「1980年代にアメリカの考古学者が唱えた」と仕立て上げることを無意識のうちにおこなってしまったのではないだろうか。もちろんその考古学者が実在しており実際の説とニュアンスが変わらず流布しているのであればこの見立ては崩れるのであるが。しかし存在証明と非存在証明の非対称性を考えると、筆者に立証責任はない(悪魔の証明)。出典が不明な以上、手抜き説は"ネット上の俗説"(都市伝説)と結論付けることにしたい。

2020年7月7日火曜日

NHK スペシャル『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 』を視聴した感想

前回に続き、『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ』を視聴した感想を以下に箇条書き。

・「これまで日本国内の出来事として描かれてきた戦国時代。ところが今、世界各地で新発見が相次いでいます。そこから、日本とヨーロッパの覇権争いが深く結びついてきた事が分かってきました。」とナレーション。「国内の出来事として描いてきた」というのは大河ドラマや歴史秘話ヒストリア等のNHKの番組的には、という事だろう。大航海時代が始まって、地球の裏側と直接人の行き交うことが可能になった時代(いわゆる第一次グローバル化)なのだから、あの時代の「地球規模での意外な繋がり」は詳しい人なら分かりきっていることではあるが。それに山田長政の話は江戸時代から知られているはずで高校日本史の教科書にも載ってるはずだし(※話に尾ひれついていて「伝説化」してるし実在を疑う学者もいるので眉唾物だが)、アンボイナ事件も高校世界史の教科書に載っている(※日本人傭兵の関わりまでは載っていなかったかも)。そして戦前にはタイオワン事件が戦意高揚のためにピックアップされたりしている。個別の詳細な事柄が新史料発見によって明らかになってきた部分は幾つかあるのだろうが、大枠の話は相当前から知られた話で、今更何をかいわんやという話だ。「遺伝法則の再発見」ならぬ「歴史の再発見」とでも言うべきか。NHKスペシャルの視聴者層の幅広さから考えると「戦国時代の地球規模での意外な繋がり」を伝える意義はあると思うが、「新発見ありました」と誇大広告気味に伝える必要は全くない。

・「日本は当時世界の3分の1の銀を産出していた銀大国。その銀を巡ってスペインとオランダが世界の覇権を争った」みたいなナレ。「覇権レース」にはイギリスも存在したし、この時期はポルトガルはスペインと同君連合だったとはいえこの後再独立してオランダに奪われたブラジルの砂糖生産地を取り返したりしているわけで、プレーヤーがスペインとオランダだけってのは単純化し過ぎでは‥と色々突っ込みたくなってきた。あまりに複雑化させるといろんな視聴者が見ている以上、混乱してきて伝えたい事が伝わないという本末転倒になってしまうというのは分かるが。それでも所々の大袈裟な表現で引っかかってモヤモヤする。

・ポメランツが登場。著書を読んだことはあるが、姿や肉声までは見た事は無かったので「こんな顔してこんな肉声している人だったんだ」と親近感が湧き感慨深かった。

「戦国時代の日本はまさに世界史の最前線だったのです。」
‥ちょっとリップサービスが入ってるかな。

「ヨーロッパ中心の歴史観を改めなければならないでしょう」
‥それ、100年以上前からずっと言われ続けてますね(笑)。シュペングラーの『西洋の没落』から始まってトインビーやマクニール辺りまでずっと断続的に。まあ著書を読んだ印象や日本の学者の間の評判で判断る限り、その中でもポメランツはアンチヨーロッパ中心史観に逆張りし過ぎな気もするが(笑)

・オランダが日本まで進出し徳川家康に営業攻勢をかけてきた背景として「スペインから独立したオランダは富国強兵のために海外進出した」とナレーション。
う~ん、17世紀辺りはオランダの貿易の中心はバルト海や北海の域内貿易がメインだし、元々フランドル地方は中世後期頃から商工業の先進地だし、富国強兵のためにわざわざ日本に営業攻勢にくるというのは違和感がある。日本の「明治維新」だって国内改革→海外進出だから時系列が違う。ポルトガルやスペインは海外進出し過ぎて逆に本国が疎かになってしまった感があるし。

・海外進出の動機は各々

オランダは商業目的
スペインは布教と領土

と解説していた。少し単純化し過ぎでは?‥とも思ったが、あながち間違いでもないか。比重で言えばその目的がメインなのはその通りだろう。正確に言うとオランダ東インド会社は利益優先(今のインドネシア辺りで細細と布教もやっていたりするがスペイン並に本腰入れてなかったはず。)だが、西インド会社は布教も目的の一つだった。まあ西の方は東に比べて規模も小さいし振るわなかったが。現在の旧オランダ領と旧スペイン領のキリスト教徒の割合見ても両国の布教の本気度の違いがはっきりと分かるね。旧スペイン領の地名(サンフランシスコとかロサンゼルスとかサンアントニオとかアスンシオンとかサンティアゴとか)見てもカトリック由来が多いしね。

当時の統計ではスペインの海外進出者の9割は宗教関係者と公務員(宣教師や役人、兵士)で占められており、残り1割は自由業という区分だった。その自由業には医者も含まれている。商人の割合は僅かに5%だった。(オランダは未調査。)こういう数字からも両国の違いは浮かび上がってくる。来日した面々見てもスペイン・ポルトガルは宣教師ばかり目立つし、オランダ・イギリスの面々は全然様相が違う。家康の外交顧問となった三浦按針(ウィリアム・アダムズ)は船大工や航海士だし(スペインの無敵艦隊を破ったアルマダ海戦では船長として参加していた)、オランダは東インド会社関係者が目立つし。


・「スペインに取って代わって世界の覇権を握ったのはオランダ」みたいな論調だったが、スペインやポルトガルががっちり基盤を固めていた新大陸の大部分・西アフリカ・フィリピンあたりはオランダは手が出なかった。ブラジル沿岸部の砂糖生産地はオランダが奪った後ポルトガルが奪い返してる。これは正しいか、間違いかというより「物事の捉え方」の問題かもしれない。その捉え方も注意を要するが。領土主張はあくまでヨーロッパ向けの領有宣言(無主地先占ルール)であって、実効支配が伴っているとは限らない。結局フィリピンもアメリカに譲るまでスペインの実効支配が及ばなかった地域が存在していたし。

2020年6月30日火曜日

NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本― (1)を視聴した感想

NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本― (1)「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」を視聴した。

以下、感想を箇条書き。


・長篠の戦いや山崎の戦いの背後にはカトリックの宣教師達が暗躍していて、勝敗の決定に重要な役割を演じたという論調だったが、言い過ぎだろう。どう贔屓目に見ても勝敗を左右するほど宣教師の役割は大きくない。twitterの戦国クラスタ界隈では評判がボロクソだったと聞いたが、さもありなん。長篠の戦いで使われた信長側の鉄砲玉の原料である鉛はタイから輸入していたものが多かったようで、その交易には宣教師が関わっていたらしい。だが、いわゆる大航海時代以前は琉球が東南アジアと東アジアの間の中継貿易に重要な役割を担っていたりしたわけで、ポルトガルやスペインが担う必然性は全くない。それよりも重要なのは信長が南蛮貿易の拠点の堺を抑えてたことが大きいだろう。また、山崎の戦いに関しても、イエズス会がキリシタン大名の高山右近に秀吉に味方するように説得したことが勝敗を左右した、というような論調だったが、これもこじつけに過ぎない。摂津衆の動向は重要だったのは事実だが、摂津衆トリオの内キリシタンだったのは右近だけで中川清秀と池田恒興は非キリシタンだし、明智光秀も宣教師を通じて右近を味方に引き入れようとしていたはずだし、筒井順慶や丹後の細川等の他の勢力の動向も重要だった訳である。自説に都合のよい事実のみを掲示するというのは良くあるパターンだが、この程度なら戦国時代に詳しい人には簡単に見破られてしまう程レベルが低い。 これはイエズス会が自分の手柄で秀吉を勝利に導いたんだというある種の自慢話を無批判に垂れ流しているか、番組のテーマにこじつけて無理やり説明しているに過ぎない。結論ありきで番組作ると「何でもテーマにこじつけて説明してしまう」という典型的な例になってしまっている。また、イエズズ会の資料ばかり見ると「当時のイエズズ会は世界を動かしていた」みたいな錯覚(偏った見方)に陥ってしまったというのもあるかもしれない。

・「仏教勢力(石山本願寺)の排除に宣教師が積極的に関わっていた」らしい。織田信長は高山右近を中心としたキリシタンの援軍1万人を得て本願寺の武装解除に成功したという。確かに石山(大坂)と高槻は近いし、近くの堺は南蛮貿易の拠点で宣教師の出入りや教会や神学校も幾つかあったはず。そういう面から考えると石山合戦での宣教師やキリシタン大名の役割は確かに大きかったかもしれない。こうしてみると石山合戦はそれなりに説得力があるが、長篠や山崎はこじつけだと思える。大風呂敷を広過ぎた。

・「戦国時代の日本は軍事的に急速に発展し、世界一の銃大国になった」らしい。ノエル・ペリンの『鉄砲を捨てた日本人』が元ネタだろう。この点については、ノエル・ペリンの著作は未読だし詳しく調べたこともないので評価しようもない。ただ、平原やなだらかな丘陵が多いヨーロッパは大砲も重要で、平地が少なく急峻な山地が多い日本は地形的に機動性の劣る大砲は適さないみたいで大砲を使う戦術は発達しなかった。時代は少し前で、地域も違うが、中東版の長篠の戦いである「チャルディラーンの戦い」やインド版の長篠の戦いである「第一次パーニーパットの戦い」でも大砲は重要な火力兵器だったので、大砲戦術が発達しなかった日本は珍しいと言えるかもしれない。というか、火縄銃は日本刀製造の鍛造の技術の応用(転用?)で国産化がスムーズだったが、大砲は鋳造技術が必要だったので当時の日本の技術では国産化は不可能だったはず。(※鍛造では大型化に限界があるため。だから大砲だけは最後まで輸入に頼った。大坂の陣で家康が用いて淀殿の侍女を死に追いやった大砲はイギリス製。また、島原の乱において海上から大砲で擁護射撃をしたのはオランダ船であった。) また、海軍での火力は大砲がメインだったので、そういう意味では当時の日本の「海軍力」という意味でも疑問符が付く。よってそれら大砲も含めた総合的な火力ではどうだったか分からない。おそらく日本よりも総合火力に勝っていた可能性があったのはスペインやオスマン帝国ぐらいだろう。当時人口が世界一だった中国(明)に関しては銃所持が多かったとは聞かない。中国製の青銅銃は数発撃っただけで銃口が損傷して使いものにならなくなる等耐久性に問題があったようだ。だから中国は銃の数もスペックも比較的劣っていたと思われる。(※文禄・慶長の役では明軍は日本の火縄銃に苦戦した。その時の日本の戦争捕虜を火縄銃部隊に編成し、北方の遊牧民との戦いに当たらせる等重宝した。)  以上の事を考慮すると、「世界一の銃大国」だったという宣伝文句は総合的な火力という点で見ると疑問符がつくが、当時世界的にも有数の火力を持っていた銃大国だったのは間違いないだろう。

・秀吉の朝鮮出兵で先陣にキリシタン大名が多かったが、それはキリスト教のイメージが急速に悪化して伴天連追放令を既に出していた秀吉が意図的にそうしたとしたうえで「キリスト教の影響力を削ごうとする秀吉の戦略だった」というポルトガルの学者の説を紹介していた。



しかし、大きな違和感がある。実際は朝鮮に近い九州の大名を先陣にしたという兵站面が理由だろう。だからキリシタン大名が多かったのは偶然であり、意図した結果ではない。『素人は戦略を語り、プロは兵站を語る』というクレフェルトの格言が身に染みる。当初はこの言葉は上から目線で偉そうな感じであまり好きではなかったが、なるほどこの手の輩が跋扈しているという文脈で出てきた言葉なんだと考え直した。


・「世界大戦争が勃発する直前だった!」と煽っていたが、当時の交通・輸送、通信の技術水準を考えるとコストも時間もかかり過ぎて莫大なコストかけるだけのメリットは薄いので、大戦争起こす動機に乏しい。というか当時のポルトガルは海外に進出しすぎて本国の人口が減って逆に衰退の一因になったという説もあるぐらい。当時のポルトガルなんてせいぜい人口150万人の小国に過ぎない。戦国時代の大大名クラスでしかなく、上洛前の信長や武田信玄、毛利元就の最盛期の石高と同じ程度の国力で、九州統一直前までいった島津の最盛期(200万石)や北条の最盛期(250万石)にすら及ぼない。だからこの程度の国力(人的資源)では、アフリカやアジアの交易拠点である商館兼要塞という「点の支配」とそれらを結ぶ航海ルートの「線の支配」を維持するので精一杯だった(新大陸のブラジル除く)。しかも、あまり知られていない事だが、この後の時代でオスマン帝国がポルトガルに奪われてたアデンを取り返して紅海経由の香料流通ルートが復活したり、インド洋の制海権をオマーンが奪取して東アフリカに影響力を及ぼしたりとイスラム側の巻き返しもあった(※エチオピア正教会とか『シヴァの女王伝説』等、昔からパレスチナ・アラビア半島と東アフリカは密接な交流があった。アジアやアフリカという区分は古代ギリシャに由来する恣意的な区分に過ぎない)。ポルトガル程度の小国では多方面に対処しきれずとても太刀打ちできなかった。ではなぜポルトガル系と言われるイエズス会が幅を利かせていたのかというと、カトリック圏の組織だからカトリックが強い南西ヨーロッパから広く人材等のリソースを集めることができたからである。そもそもイエズス会が結成されたのはパリ大学だし(義兄弟による「桃園の誓い」‥ではなく創設メンバーによる「モンマルトルの誓い」)、創設メンバーの多くはスペイン人だったし(内訳はスペイン人5人、ポルトガル人1人、フランス人1人)、本部は結局ローマに落ち着いた。来日経験のあるイエズス会の宣教師の出身を見ると、オルガンティノやヴァリニャーノは今のイタリア出身だし、ザビエルやコスメ・デ・トーレスはスペイン出身なのでポルトガル人以外も数多くいたのである。だから、イエズス会という組織はポルトガルと結び付きポルトガル国王の庇護を得て布教していたものの、基本的にローマ・カトリックの下部組織なので小国の色々な厳しい資源制約には縛られなかったのである。


また、スペインもスペインでマニラの建設も始まったばかりのはず。実現可能性はとても低くほとんどアジア征服はほぼ口先だけだと思える。計画倒れなのは当時の情勢とか技術水準とかいくつかの要因を考慮すると当然の成り行きだったのではないか。秀吉のアジア制覇も結局、朝鮮での足掛かりすら維持できずに失敗したわけで。ただ、これよりも100年以上後の七年戦争はガチの世界大戦争だったといえるかも。北米のインディアンやムガル帝国も巻き込んだ英仏間の覇権をめぐる戦争で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカという四大陸にまたがって連動しておきた初の「グローバル規模の戦争」だった。なので、ある意味では七年戦争こそが「第一次世界大戦」だったといえるかもしれない。いずれにしろ、この当時の西葡は七年戦争の頃の英仏のように各大陸に地盤をきっちり固めていたともいえないし、状況が異なるので実現可能性はやはりかなり低そうだ。


‥とここまではボロクソに批評してきたが、評価できる点もある。一つは「これまで長篠の戦いは織田の鉄砲隊 VS 武田の騎馬隊と言われてきたが、実は武田側にも鉄砲隊が存在した」と視聴者に伝えたこと。

実は鉄砲の装備率は織田軍と武田軍も同じぐらいだった。勿論、織田軍の兵数の方が多いから絶対数では織田側が多いが、武田勝頼が鉄砲の重要性をちゃんと認識していたのは長篠以前の勝頼の発給文書からも伺える。ただ、火薬の原料の一つである硝石は日本では取れないので、輸入に頼るか、人口的に作り出すしかない。人口的に作る技術は未発達だったはずだから、前述したように堺を抑えていた信長が硝石の流通を制御して武田に弾薬が渡らないようにしてた(経済封鎖してた)ように記憶している。そこはあまり詳しくないし、記憶があやふやだが‥。だから装備率は変わらなくても武田側は火薬は不足気味だったかもしれない。

もう1点は「実は多くの宣教師が布教だけでは無く、日本や中国の征服計画に積極的に動こうとしていたこと」を広く知らしめたこと。筆者もその辺の認識はあやふやで宣教師の中でも意見が割れていたように思っていた。だが、この番組にインスパイアされて番組のネタ元の1つである中公新書の『戦国日本と大航海時代』の関係箇所を読んでみると、実は多くの宣教師が征服計画に積極的で疑問視していたのは少数派だったようだ。また、番組でも触れられていたが、「中国人はなかなか改宗に応じないので日本の軍事力を利用して中国を征服する」という計画があった。これを最初聞くと斜め上の発想で仰天すると思うが、敵対的な民族やら派閥を味方にして滅亡においやったインカやアステカの成功例をなぞるつもりだったのだろう。勿論、当時の日本も明(中国)も戦争捕虜の心臓を生きたままえぐって生け贄にするような事はしていないので同じ手は通用しないのであるが。

2020年3月9日月曜日

19世紀頃の各国の識字率


【東アジア】

日本:27.5-30% 
ドーアによる1870年頃の推測値。著書には「どんな資料から推定しても、1870年頃には各年齢層の男子の40-45%、女子の15%が日本語の読み書き算数を一応こなし、自国の歴史、地理を多少はわきまえていたとみなしてよさそうである。」とある。
出典:『学歴社会 新しい文明病』 P.55,  R.P.ドーア

清(中国):16-27.5%
Sakakida Rawskiによる推測値。著書には「18世紀から19世紀にかけては、おそらく男が30-45%, 女は2-10%がいくらかの読み書きが可能であった。」(拙訳)とある。
出典:『Education and Popular Literacy in Ch'ing China』P.23, Evelyn Sakakida Rawski, 1979年

なお『詳説 世界史研究』(P.402, 2000年発行)では清末の識字率は10%以下となっているが、出典不明であり李氏朝鮮と比べてもあまりに低すぎると思われるので採用しなかった。

李氏朝鮮:16-20%
朝鮮総督府による国勢調査(1930年)からの筆者による大雑把な推測。
(1930年時点でハングルの読み書きができるものの割合が60歳以上の朝鮮人で約20%)
出典:『朝鮮国勢調査報告. 昭和5年 全鮮編 第1卷 結果表』,  国立国会図書館デジタルコレクション, コマ番号63

推測の際の参考サイトは以下になる。
『データで見る植民地朝鮮史』
"併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16~20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。"

李氏朝鮮末期の1894~1897年にかけて4度の調査旅行を行ったイザベラ・バードは著作で「小集落は別として、漢江沿いの村々には学校がある。ただし学校と行っても私塾である。家々でお金を出しあって教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟に限られ、学習するのは漢文のみで、これはあらゆる朝鮮人の野心の的である官職への足掛かりなのである。諺文[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、私の観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。」と記しており、少なくとも首都ソウルの近辺である漢江沿いでは村組合型の書堂(ソダン)が各村に存在し、多くの男が識字能力を備えていたことがうかがい知れる。
出典:『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著、時岡敬子訳, P.111

【ヨーロッパ】

欧州諸国の数字の出典は全て以下になる。
『読み書きの社会史 文盲から文明へ』, カルロ M.チポラ, 統計補遺のP.2

スウェーデン:90%
調査年1850年。

プロイセン(ドイツ):80%
調査年1849年。

イングランド・ウェールズ:67-70%
調査年1851年。

フランス:55-60%
調査年1851年。

スペイン:25%
調査年1857年。

イタリア:20-25%
調査年不明。筆者の主観では低すぎる気もするが南北格差が影響している?

ロシア:5-10%
調査年1850年。あまりにも低いので驚いた。ただ岩倉使節団のペテルブルク訪問では「貴族の館だけは立派だが、それ以外はわびしい」という報告があり、未だ農奴制が強固である事と矛盾しない。

【その他】

アメリカ:80%
合衆国センサス(1870年)。
白人88%、非白人20%。
出典:『読み書きの社会史 文盲から文明へ』, カルロ M.チポラ, P.83

メキシコ:20%
1910年頃。
出典 : 『概説メキシコ史』, 有斐閣選書, P.100

トルコ:10.6%
1927年、男17.4%,  女4.7%。
出典 : 『近代中東・イスラーム世界におけるプリント・メディアの歴史と構造』P2, 平野淳一, 情報処理学会研究報告

エジプト:7%
1907年、男13%, 女1%。
出典 : 『近代中東・イスラーム世界におけるプリント・メディアの歴史と構造』, P5, 平野淳一(情報処理学会研究報告)
リンク先は上記に記載。

※インド:3.5%
1881年。
出典:『A students' history of education in India (1800–1973)』SYED NURULLAH, J. P. NAIK


2020年2月13日木曜日

ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか

現在、ホモ属はジャワ原人やデニソワ人等の24種は既に絶滅しており、ホモ・サピエンス(現生人類)の1種のみが生き残っている。*1

ネアンデルタール人も既に絶滅してしまっているが、サピエンスよりも優れていた点はいくつもあった。例えば、彼らの脳容量は平均1550ccにもなりサピエンスの1350ccよりも大きい。*2 

※NHKスペシャル『人類誕生』第2集より

脳の形から、見たものを処理する視覚野の部分が大きいので、視覚に関係する能力はネアンデルタール人が勝っていたのではないかとも言われている。*3
また、サピエンスよりもやや背が低かったものの、がっしりした体型だった。そのため狩猟は大型動物に武器を持って直接襲いかかる接近戦を行っていたらしい。
「もし1対1で喧嘩をしたら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。」という指摘もある。*4

がっちり体型のネアンデルタール人(左)と華奢な体型の現生人類(右)。
※出典 : 『人類進化論 霊長類学からの展開』P.163


また研究の進展で定説の修正が必要になる可能性も出てきている。
ひと昔前までは「進化とは直線的なものである」という進化観を元に猫背だと思われていたが、最近の研究ではサピエンスとほぼ変わらず背筋がピンとしていたのではないかという結果も報告されている。


一昔前のネアンデルタール人のイメージ。サピエンスよりも猫背である。
※出典 : 『ニューステージ 新訂 生物図表』 P.204(2007年発行)

最近の研究をもとに復元されたネアンデルタール人。背筋がピンとしており直立している。
※NHKスペシャル『人類誕生』第2集より

脳も大きくがっちり体型なのに、なぜ絶滅したのか

2018年放送のNHKスペシャル『人類誕生』第2集では「ネアンデルタール人には社会が無かった」ことが原因だと解説されていた。すなわち集団での情報共有がないために道具の技術革新が進まなかったようだ。例えば発掘された石刃を年代順に比べると、サピエンスは時代が進むにつれて改良が進み鋭利なナイフ等を生み出していったのに対し、ネアンデルタール人の石刃は25万年もの間ほとんど変化が無かったらしい。

※NHKスペシャル『人類誕生』第2集より(一部改変)

ネアンデルタール人は10数人~20人の小集団で暮らしていたようで、同じ時期のサピエンスの150~300人に比べると少ない。霊長類では群れのサイズが平均50頭なので*5、ネアンデルタール人は霊長類の中でも集団サイズが小さいようだ。ただ、霊長類以外では数万匹~数億匹の群れで行動するイワシやサバクトビバッタ、時には10万羽以上の群れ(コロニー)を形成する例もあるというオウサマペンギンも存在する。またミツバチやシロアリ等の社会性昆虫のように形態の分化(頭部の巨大化や不妊化)によって労働カースト・兵隊カースト・生殖カーストと明確な分業体制が敷かれ、一見するとわが身を犠牲にして「利他行動」に走っているだけの個体が存在する種もある。これらの例を見ると群れのサイズが大きければいいというものでもなく、また単に「社会性」が存在すればいいというわけでも無さそうだ。

やはり昔から言われているように両者の分水嶺は音声言語能力の差ではないだろうか。
これにより環境への適応能力の差が生まれたのではないか。
言語を話す能力として必要なものは大きくハードウェアとソフトウェアに分けられる。

まずハードから見ていく。
同じホモ属のホモ・エレクトゥスは言葉が話せなかったと言われているが、それは脊髄の胸の部分が細いからだ。それに比べてネアンデルタール人はサピエンス並みに太くなっている。胸部で神経が増加しているのは声を出すときに胸部の筋肉や呼吸をコントロールするためだと考えられている。*6 また、舌骨の形からかなり自由に声を出せたと考えられている。しかし発声器官の構造として音が反響する空間が広いネアンデルタール人は明確に母音を発音することはできなかったようだ。*7
だから仮にネアンデルタール人が何らかの言語を話せたとしても、今の現生人類の言語体系とは異なるものだったと考えられている。

また脳の全体的な形も異なっている。ネアンデルタール人の方は上下に延びてつぶれたような形である。

頭蓋骨の比較。上がネアンデルタール人で下がクロマニヨン人。
ネアンデルタール人は長くて低く、クロマニヨン人は短くて高いことが分かる。
※出典 : 『人類進化論 霊長類学からの展開』P.162


大きさや形からの推測ではネアンデルタール人の脳は以前の人類と同じタイプで性能が向上している事が読み取れるようだ。だが、サピエンスは全体の性能は少し劣るが、新しいタイプの脳だという。*6 

また、別の研究ではネアンデルタール人の小脳は小さかったとされる。筆者の記憶では小脳は運動機能を司るという知識があったが、最近の研究では実際は同時に言語や学習(ワーキングメモリ)とも関係している事が分かってきたようである。*8 *9 
つまり、小脳の相対容量の差が言語能力の差につながっている可能性が高いということである。

次にソフトを見てみる。
FOXP2遺伝子に障害があると、大脳皮質の前頭葉にあるブローカ野という領域の活動が低くなり、会話や文法の理解に障害が出てしまう。だが、サピエンスとネアンデルタール人はこの遺伝子について共通のようだ。とりあえず、言語にかかわるブローカ野のソフトは問題なさそうだ。だが、ハードでも述べたようにネアンデルタール人の小脳の相対容量は小さい。つまりワーキングメモリの容量が少ないということなので、もしかすると言語アプリを使うのに必要なメモリ容量(作業机の広さ)が足りないということかもしれない。

以上の事実から考えると、サピエンスの誕生はそれまでのホモ属とは異なるアーキテクチャを持つ「人類脳 Ver2.0」リリースという認知革命が起きていたということなのだ。ハラリの『サピエンス全史』では、この認知革命によりサピエンスが宗教等のフィクションを信じるようになったとの趣旨だったが、例えば「平和」というような抽象的思考、概念操作はそもそも言語がないとできないと言われているので、おそらく言語の誕生と同時に認知の変革も生まれたのだろう。ネアンデルタール人の住居跡等の遺跡からはストーンサークルやはしごのような絵画が見つかっているし、死者の埋葬も行われているので、ある程度の抽象的思考は可能だったかもしれない。しかし、総合的に判断するとやはりサピエンスのそれとは次元が異なるレベルだったのだろうと思われる。

結論

ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか?
→発声器官と脳のアーキテクチャの違いによる言語能力の差により、生活圏が重なる(=生態的地位が近い)サピエンスとの競争に敗れたため。

(この差によりサピエンスは言語による知識の共有で道具等のイノベーションが進展し、集団内での役割分担や交易等による分業体制の進展で経済力を高め人口も増やしていったのである。)

補論

※2022/10/10 追記

数日前のニュースで、現世人類にネアンデルタール人のDNAが数%程度混じっている事を発見したスバンテ・ペーボ氏がノーベル医学・生理学賞を受賞するという事を知った。

2022年のノーベル生理学・医学賞に「人類の進化」の研究者https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2022/medicine/article_18.html

筆者としても「この分野で医学生理学賞を受賞できるものなのか」とあまりにも意外だったのでとても驚いている。新型コロナの世界的な流行は数年前から始まって未だに収束していないが、流行初期においてはその重症化する割合が先進国間でも大きな差が生じており、その原因についてはマスク着用率・スキンシップの有無や入浴習慣と言った文化・習慣に起因する説、BCGワクチンの接種率が関係している説など諸説が唱えられてきたが、未だにこの論争(‥というよりも諸説紛々状態というべきか)にははっきりとした決着がついていないようだ。ips細胞の研究でノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥氏ははっきりとした原因は現段階では確定できないが、とにかく何らかの未知の要因が関わっているのだろうという事で「ファクターX」と称していた。そうした中、スバンテ・ペーボ氏は新型コロナの重症化にはネアンデルタール人由来のDNAが関わっているのではないかという論文を発表し、ファクターXをネアンデルタール人由来遺伝説としたのである。こうしたタイムリーさもあって古人類学、古遺伝学と言った異色の分野の研究者がノーベル医学・生理学賞を受賞するに至ったのだろうと筆者は推測している。

また、ハラリは『サピエンス全史』において

"私たちの言語は驚くほど柔軟である、というものだ。私たちは限られた数の音声や記号をつなげて、それぞれ異なる意味を持った文をいくらでも生み出せる。"

と単語と単語を組み合わせて文章を作る言語能力こそが他の動物と異なる人類の特異な能力なのだ、という事を示唆していたが、京都大学の鈴木俊貴氏の研究によって、鳥類のシジュウカラが「単語を2つ以上組み合わせて文章を作る」「文法規則が存在する」「コガラやヤマガラ等の他の種の鳥の言語も理解できるマルチリンガルである」という言語能力を持つことが発見された。ヒト以外の動物でこのような言語能力を持つ事が実証されたのは初めてだという。

シジュウカラに「言語」能力 鳴き声をまとまりで認識―京都大

"小鳥のシジュウカラには二つの連続する鳴き声を一つのまとまりとして認識する能力があることを、京都大白眉センターの鈴木俊貴特定助教らの研究グループが4日までに発見した。二つの単語(「黒い」と「犬」)を一つのまとまり(「黒い犬」)として認識する「併合」はヒト固有の能力と考えられており、ヒト以外の動物で確認されたのは初めてという。9月24日付の英科学誌、ネイチャー・コミュニケーションズに掲載された。

犬、平均89単語を理解 カナダ研究、高い能力判明

 これまでの研究で、シジュウカラの鳴き声には警戒を促す「ピーツピ」や仲間を集める「ジジジジ」などがあり、モズなどの天敵を追い払う際には「ピーツピ・ジジジジ」と鳴くことが分かっていた。
 研究グループは国内の山林でモズの剥製とスピーカーを使い、野生のシジュウカラの群れの反応を調べる実験を実施。同じスピーカーから続けて「ピーツピ・ジジジジ」と流した場合は、多くの群れがモズを追い払う行動を取ったのに対し、2個のスピーカーから連続して「ピーツピ」「ジジジジ」と流しても、ほとんどの群れは追い払う行動を取らなかった。また、鳴き声の順番を逆にすると、どちらの場合も反応しなかったという。
 鈴木氏は、二つの鳴き声が一つのまとまったメッセージなのかをシジュウカラが認識できていると指摘。「ヒトの言語と動物のコミュニケーションには連続性や共通点もあるのではないか」と話している。(2022/10/04-13:32)"


東大の助教を辞め、5年任期の教員に…シジュウカラにすべてを捧げる「小鳥博士」の壮大すぎる野望

https://president.jp/articles/-/57657



勿論、シジュウカラがヒトのようにもっと多くの単語を組み合わせて何時間も演説や会議を続けたりといった事はできないだろうし、抽象概念を操作するといった事は今のところ確認されていないので、そういった点ではやはりヒトの言語能力の特異さは変わらないだろう。だが、これまではヒト以外の動物の言語に文法があったり文章を作ったりできるとはみなされていなかったのであるから、最近の研究成果によって、より相対化するような認識の修正をする必要が出てきたのは事実だろう。


また、今年発売された『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』という本では

"生殖に関係するX染色体の遺伝子は、デニソワ人とネアンデルタール人双方ともにホモ・サピエンス集団から排除されています。生殖に関する能力は、ホモ・サピエンスの遺伝子のほうが優秀だったようです。案外、私たちが残ったのは、単により子孫を残しやすかったためなのかもしれません。"

と指摘し、ネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅の原因については単純にホモサピエンスの方が子孫を残しやすかった=生殖能力の差の可能性を示している。いずれにしろこの分野の研究はまだ始まったばかりであり、研究の進展に従って、ある説が覆されたり今後も色々と解明されていくのだろうから、せっかちに結論を下そうとせずに研究の進展を冷静に見守っていきたい。






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※参考文献 :
『絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか』、更科 功、NHK出版新書
『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福』、ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房
『人類進化論 霊長類学からの展開』山極寿一、裳華房、2008年
『ニューステージ 新訂 生物図表』, 浜島書店, 2007年
NHKスペシャル『人類誕生』第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」



*1
ただし、遺伝子解析によれば現生人類にも数%ほどネアンデルタール人やデニソワ人のDNAが含まれており、我々はネアンデルタール人等との混血だそうだ。また、従来はアフリカ人にはネアンデルタールDNAは継承されていないと思われていたが、最近の研究ではヨーロッパ人の3分の1程度のネアンデルタールDNAが継承されている事が判明した。

※参考サイト :
アフリカ人にもネアンデルタール人DNA、定説覆す
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/020300072/?P=2

ただし、記事中の「アフリカ人」がサハラ砂漠以南の黒人を含むかどうかは不明だ。アフリカ人の定義をはっきりさせてほしい。
筆者の推測ではおそらくサハラ砂漠以北のアフリカ人のみを指していると思われる。北アフリカの人々であれば今更驚くほどでもないだろう。今から5500年前のエジプト(つまり王朝成立以前)の首長の墓からラピスラズリが発見されている。この鉱物は産地が限られ、最短距離でも3700km以上も離れた現在のアフガニスタンのバダフシャーン州でしか産出しない鉱物である。おそらく直接手に入れたのではなく、中継地であるメソポタミア地域の市場で手に入れたものだろうが、相当昔から交易は行われていた事を示している。また、起源前12世紀頃からはフェニキア人が地中海沿岸での交易を活発化させている。記事では「一部はローマ帝国の拡大によって起こった可能性がある」という趣旨の記載があるが、前述したように、ローマが勃興するはるか以前から他大陸との交易・植民等はある程度行われているので、北アフリカ地域に混血するのはそんなに驚くことでもない。そもそもアフリカとかアジアとかいう分類は恣意的なものに過ぎず、スエズ地峡で地続きなのだから少なくとも東地中海地域の間の交流のハードルはかなり低いだろう。こういう記事を見ていると、月並みな表現だが「理系」にも「文系」の素養は必要だとつくづく感じる次第だ。

*2
ただし、両種とも個体差がかなり大きい。ネアンデルタール人で大きい者では1740ccにもなるとのこと。ネアンデルタール人の中にも現生人類と同じようにデカ頭もいれば小顔美人もいたようだ。また、現在の現生人類は初期のころに比べて脳容量がやや小さくなっているようだ。豊かな生活を手に入れた結果、脳が「退化」しているのかもしれない。

※出典 : 『絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか』、更科 功、NHK出版新書

*3
ヒトが「ネアンデルタール人」を絶滅させた ヒトより脳も大きく、ガッシリしていたのに
https://toyokeizai.net/articles/-/208287?page=2

*4
『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』、ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社

*5
『人類進化論 霊長類学からの展開』山極寿一、裳華房、2008年

*6
『絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか』、更科 功、NHK出版新書

*7
ネアンデルタール人はヒトのように言葉を話すことができたのか?
https://gigazine.net/amp/20190613-did-neanderthals-speak

*8
ネアンデルタール人の「脳」、仮想立体モデルで復元 研究
https://www.afpbb.com/articles/-/3172723

*9
"小脳は筋肉に動きの指令を出すというよりも,入ってきた感覚信号を統合する役目を果たしているようだ。"
小脳の知られざる役割
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/cerebellum.html

やはり最近の研究の進展で悪しき要素還元主義パラダイムはどんどん駆逐されていっているようだ。「木を見て森を見ず」の要素還元主義パラダイムの弊害は大きいとつくづく感じるし、行き着く先はロボトミー手術というノーベル賞黒歴史であろう。

2020年2月1日土曜日

織田信長とアレクサンドロス大王の共通点

急に思いついたのでメモしておく。


              
共通点 織田信長 アレクサンドロス大王
父親が飛躍の基盤を築く 「尾張の虎」と呼ばれた名将・信秀が基盤を築く。

文化・学問の先進地だった京都との繋がりを重視した外交政策(例えば、公家の山科言継や飛鳥井雅綱を尾張に招き、受講料を払って和歌や蹴鞠の指導を仰いだ)。

経済政策(流通拠点・商業の重視※2)や戦略的な居城移転※3などは信長が受け継ぐ。
名将・フィリッポス2世が軍制改革や財政基盤の確立(金貨鋳造等※1)などで基盤を築く。

先進地だった古代ギリシャ南部との関係を重視した外交政策(例えば、アリストテレスを招き息子のアレクサンドロス大王の家庭教師につけた)。

マケドニア式ファランクスやペルシャ遠征などはアレクサンドロス大王が受け継ぐ。
家督継承時からの勢力急拡大。そして志半ばの急死 家督継承時の南尾張の一部※4(16万石程度?名目上は尾張守護・斯波氏の陪臣)から最盛期には700-800万石へと領土を急拡大した。

しかし、天下統一※5の志半ばで本能寺の変により急死(満年齢48歳)。
バルカン半島南部のみだった実効支配地(※名目上はコリントス同盟の盟主。同盟不参加だったスパルタを除く。)から最終的に西はエジプトから東はインダス川流域までの広大な領域へと急拡大した。

しかし、アラビア遠征の計画中に10日間高熱にうなされた後、"世界征服"の志半ばで急死(満年齢32歳)。死因は不明。
急死後、会議が開催され後継者を決定

有力家臣が実権を握り相争う展開に

結局、部外者が平和確立へ
清州会議で後継者決定

有力家臣たちによる後継者争い

結局、東の部外者である徳川家が天下統一へ(パックス・トクガワーナ)
バビロン会議で後継者決定

有力家臣たちによる後継者争い(ディアドコイ戦争)

結局、西からやってきた部外者のローマが地中海世界を統一へ(パックス・ロマーナ)

※1
フィリッポス2世が征服地の鉱山の開発により造幣した金貨。紀元前356年の古代オリンピックの戦車競走にフィリッポス2世が参加し、優勝したことを記念して作られた。表面には月桂冠をかぶったアポロン(画像左)、裏面には二頭立ての馬引き戦車(チャリオット、画像右)が描かれている。

※2
信長は清州城→小牧山城→岐阜城→安土城と戦略的に居城を変えていったが、これは父・信秀のやり方に倣ったものである。信秀も勝幡城→那古野城→古渡城→末盛城と戦略的に居城を変えている。これは躑躅ヶ崎館を生涯居城とした武田信玄や春日山城の上杉謙信、毛利家の家督継承後は吉田郡山城を動かなかった毛利元就、氏綱以降の4代にわたり小田原城を動かなかった北条氏に比べると珍しいことであった。

※3
信秀は港町で門前町でもある津島と熱田を抑えていた。このように重要な流通拠点・商業地を抑えることで守護代をしのぐ経済力をもち、主導権を握ることにつながった。
信長は足利義昭から副将軍か管領への就任打診を受けたことがあったが、これを蹴って代わりに堺、大津、草津という重要な流通拠点の支配権を望んだ。これは形骸化した官位よりも流通拠点の徴税権の方が役立つというのを父親の経験から身をもって学んでいたからなのである。

※4
一説には信秀のピーク時の勢力圏が尾張+美濃南部+三河西部といえるほど勢いがあったと言われている。だが第二次小豆坂の戦いで太原雪斎率いる今川軍に敗れて以降、西三河を失うなどして勢いを失った。その後は尾張守護代との関係悪化や病気で寝込みがちになって政務もあまりこなせなくなる等して、病死の直前には尾張一国すら束ねることができなくなってしまった。よって信長の家督継承時の勢力圏は尾張の一部でしかなかったわけである。

※5
この場合の「天下」が何を指すかは難しい問題かもしれない。時代によっても文脈によっても範囲が異なるようで、畿内周辺のみを指す場合もあるようだ(当時作られた日葡辞書で解説されている)。ただ信長は生前に明国の征服構想を語っており、秀吉もその遺志を受け継いで実行に移している(文禄・慶長の役)。秀吉は関東・東北への総無事令(私戦停止令)を出す以前、九州平定の際に朝鮮国王へ臣下の礼をとるように書簡を送っている。おそらく秀吉にとっては、朝鮮国も数ある諸大名の中の一つという認識だったのではないかと思われる。また秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル領)とマニラのフィリピン総督(スペイン領)にも帰順を促す書状を送っている。こういった事実から推測すると、少なくとも秀吉の感覚だと天下の範囲=日本列島と限定しているわけではなさそうだと個人的には思える。当時の東アジアの国際秩序は現在の主権国家体制とは異なるので、現在の国境概念をそのまま当てはめることはできないだろう。そうすると、信長も(実現可能かどうかはともかく)ある意味で"世界征服"を目指していた可能性はある。

2020年1月27日月曜日

「カントが地震学の祖である」というデマについて

 数年前の歴史秘話ヒストリアという番組でリスボン大地震を扱った回があった。阪神淡路大震災から20年という節目もあるが、リスボン大地震では津波の被害も大きかったので(津波だけで死者1万人)、東日本大震災も意識されて取り上げられたんだろう。

 その回では後半の方でカントが(宗教的な枠組みから離れて)初めて地震を自然現象として科学的な分析を行ったので「カントが地震学の祖です」と説明があった。当時はそれが印象深くてずっと記憶に残っていたので、今までずっとカントから地震の科学的な分析・考察が始まったのかと思い込んでいた。だが、調べてみるとどうも全くのデタラメだということが分かった。

 ネットで検索してみると人と未来防災センターのサイトに「リスボン地震とその文明史的意義の考察」という研究調査報告書(pdf)がある。そこには

地震が神の仕業であるという思想が主流を占めていた当時の知識社会において、地震を自然現象として捉えたカントの推論は画期的であり、現代ではこれを「地震学の祖」と評価する向きもある。

との記載がある。どうやらこの報告書が発信源のようだ。また、ヒストリアだけではなく例えば『現代を読み解くための「世界史」講義』という本(電子書籍)にも同様の記載があり、結構流布してしまっている。

しかし、繰り返しになるが調べてみると真実は全く異なるようである。WikipediaのSeismology(地震学の英語)のhistoryという項目を見ると古代ギリシャ、古代中国以来の地震学の歴史における重要人物が何人も挙げられているがカントの名前は一切出てこない。また、1755年のリスボン大地震についても触れられており、その発生メカニズムを分析した研究者が二人挙げられているが、いずれもカントとは別の人物である。

また『はじめての地学・天文学史』という本には

19世紀の末、地震の揺れを連続的に記録できる地震計の発明とともに近代的な地震学が誕生しました。

とあり、こちらの本の定義では「近代地震学」はカントの時代よりももっと後に生まれたことになる。また、

古代ギリシャの哲学者たちは、地震を純粋な自然現象として理解しようと努めました。
と、初めて地震を純粋な自然現象として理解しようとしたのは古代ギリシャの哲学者たちであったと述べている。その後の西欧では西ローマの滅亡等で混乱がつづき、忘れられていったようだが中世も終わり頃になるとアリストテレスやルクレティウスの著作(写本)が再発見され、ルネサンス期には再び地震の原因について科学的な枠組みで論じるようになった。その後ルネサンス期~リスボン大地震後まで実に色々な人物が挙げられているがここでもカントの名は一切出てこない。ただリスボン大地震をきっかけとして西欧各国の関心は高まったようで、イギリス王立協会にはリスボン大地震に関する論文が80編も寄せられたとある。つまり当時リスボン大地震について科学的な枠組みで論じた人は数多くおり、カントはその中の一人でしかなかったことが分かる。

結論


『若きカントの地震論』という論文に

こうしたカントの地震についての科学的な説明は、当時の自然科学の知見一般を超えるものではなかったようである …(略)… 。つまり、カントの地震論の科学的考察においては、とくに独自な見解が述べられているとはいえないのである。

と述べられているが、この見解が妥当なように思われる。カントの推論は画期的なものでもなんでもなく、当時の自然科学の水準からみるとごくありふれたものだったのである。



(追記)

WikipediaのSeismologyのHistoryには、地震の自然要因に関する推論を(記録に残る限りで)最も初期に行った人物としてタレス、アナクシメネス、アリストテレスといった古代ギリシャの哲学者たちと並んで張衡の名が挙げられている。張衡は世界で初めて地震計を作ったとされている。また『はじめての地学・天文学史』には世界最古の地震の記録は紀元前1831年に中国で起こった「泰山鳴動」だとある。このように地震の記録や地震観測装置は古代ギリシャよりも古代中国の方が先んじていたようだが、地震のメカニズムについての探求はあまり関心が向かなかったようだ。張衡は世界で初めて地震計を作ったものの、具体的な地震発生理論は何も述べていない。『史記』の中にある記録官である伯陽甫の記述に代表されるように中国では地震のメカニズムを陰陽論(韓国の国旗の真ん中にあるアレ)という枠組みで認識されていた。『中国の科学と文明』シリーズの第6巻 地の科学 を参照する限りでは南宋末期の周密の著作にも「地震は陰と陽の測ることの不可能な衝突によって起こる」との記述があり、少なくとも周の幽王の時代(紀元前8世紀)から南宋の末期(13世紀)まで2000年以上は中国では陰陽論の認識体系でしか地震のメカニズムを捉えていないことが分かる。他にも認識体系のバリエーションはあるかもしれないが、おそらく陰陽論に近いような観念的な認識体系ばかりだろう。陰陽論ではカール・ポパーが科学的言説の必要条件として挙げる「反証可能性」を満たさないのでとても科学とは呼べない。陰陽論の「気」という捉えどころのない測定不可能な方法論や枠組みをもとに立てられた仮説では検証のしようがなく、どうとでも解釈できてしまうからである。それを考えると同時期の古代ギリシャの哲学では既に科学的な方法論・認識体系の萌芽が生まれていたから驚きである。タレスの「万物のもとは水であり、地震は大地の下の水が揺れ動くことによって起こる」という説は、一見観念的であり、陰陽論との違いが分かりにくいのであるが、具体的な理論であり検証可能性があるという点でやはり陰陽論と比べたら断然科学的方法論に近い。霊的・観念的な考えを排除し、純粋な自然現象として理解しようと試みた古代ギリシャは改めてチートだと思った次第。意味論的・目的論的な自然観を排除した機械論的自然観(自然現象は意味も目的もなく、単にぜんまい仕掛けの機械のように動くだけであるという見方)はデカルトあたりから始まるが、古代ギリシャに既にその萌芽があったのである。そして、13世紀頃から西欧文明圏で古代ギリシャ、古代ローマ時代の著作が流入したり再発見されたりして、そういった古代の知見を継承した上で近代科学が生まれていく。中国では科学的な方法論や認識体系が(大航海時代に西欧から入ってくるまで)生まれることは遂に無かったが、中国科学史家の薮内清が指摘しているように、これが中国で科学が誕生しなかった要因の一つであろう。