2020年7月24日金曜日

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった」というネット俗説の検証


序論

「元寇の船は高麗による手抜き工事だった。そのため暴風雨(台風)により多くが沈没した」という説は現在でもネット上の一部の界隈でまことしやかに語られ流布している。しかし、Wikipediaの元寇の記事やヤフー知恵袋では「実際は高麗製の船は頑丈だった。なので高麗製の船はほとんど沈没していない」とする真逆の言説も見受けられる。確かに手元の資料を見る限り「高麗製の船は手抜きだった」とは一切記載がないし、むしろ「高麗製の船は頑丈だった」という全く逆の記述が見られる。一見すると情報が錯綜しているように見える。そこで、自分自身の情報整理も兼ねてこの"ネット上の俗説"を検証してみようと思う。

本論

前述の通り、手元の信頼できる資料を数冊確認した限りでは、「高麗製の船は手抜きだった」という記述は一切見当たらない。むしろ「高麗製の船は頑丈だった」との全く逆の記載が見受けられる。たとえば、『元寇 蒙古襲来の内部事情』(原著1965年、P.143)という本には

台風によって、東路軍(※筆者注 元・高麗軍)・江南軍(※筆者注 旧南宋軍)ともに大損害をうけたが、江南軍の艦船のできがわるく、こわれやすかったのに比して、東路軍のそれが堅牢であったためである。前者は中国(※筆者注 旧南宋地域のこと)でつくられ、後者は高麗でできた。中国人の工匠が手をぬいたためかと思う。
 との記載がある。ただし、これは弘安の役に関しての記載である。中学校の歴史の教科書のおさらいになるが、一口に元寇と言ってもモンゴルによる第一次日本遠征(文永の役)と第二次遠征(弘安の役)と二つのeventに分かれる。何者かのおっちょこちょいによりこの二つが混同されてしまい、ネット上の情報が錯綜しているのかもしれない。いずれにしろ、この記述が正しければ手抜きで建造されたのは実際は高麗製の船ではなく江南製(旧南宋製)の船ということになる。伝言ゲームでいつの間にか話がすり替わってしまった可能性がある。

別の文献を調べてみる。『沈没船が教える世界史』の第3章「沈没船が塗り替えるアジアの歴史」には

鷹島では韓国(※筆者注 高麗のことを指すと思われる)からの船だと思われる部材が、数例を除いてほとんど発見されていない。発見された遺物もほとんど中国(※筆者注 旧南宋地域のことを指すと思われる)のものばかり。つまり、韓国から来た船団はほとんど被害に遭っていないか、たまたま調査された海域には韓国の船がなかったことになる。記録にも、最も大きな被害を受けたのは中国からの軍艦で、韓国からの船団はあまり被害を受けていないとある。

とあり、文献資料からも暴風雨により大きな被害を受けたのは江南軍の船団だとわかるが、それが考古学的遺物の調査研究により裏付けられている、としている。ただ、この本は2012年出版の本で、2011年の鷹島での元寇の沈没船発見以降の研究動向については一切言及がない。なので、2017年出版と比較的新しい『蒙古襲来と神風』(P.111)を参照してみる。なお、この本では沈没船についての考察もなされている。

東路軍と江南軍の被害の差は相当あって、原因は船の堅牢性の差にあった、と記述されている。元の王惲による『汎海小録』には、「ときに大小の戦艦の多くが波浪のためにみな揃って触れた。しかし高句麗(※筆者注 高麗のこと)の船は堅牢であったから、みな帰ることができた※1。8月5日である」とある。博多湾と鷹島の地理的差異もあっただろう。」
※1 ”みな帰ることができた”というのは誇張表現だろう。別の史料である『高麗史』の記録を基にすれば帰還率は約72%だ。また未帰還者28%も溺死者だけでなく、病死者や戦死者、戦争捕虜も含まれているのでほとんどが暴風下でも沈没しなかったと推測できる。

 とあり、この本も高麗製の船はむしろ頑丈であり、それが東路軍と江南軍の被害の差につながったという趣旨である。

以上のように手持ちの3冊の文献を当ってみたものの、「高麗製の船が手抜きだった」という記述は一切なく、むしろ弘安の役に関して言えば「高麗製の船は頑丈である」という真逆の記述が見受けられた。

次は「高麗製の船手抜き説」を紹介しているサイトをいくつか検証してみる。こちらのサイトでは

難破した船は、高麗が突貫工事で造ったものでした。
それだけに、手抜き工事が多く、船としては十分なものではなかったといわれています。
と文永の役に関して解説している。ただ参考文献を一切挙げていないので検証が難しい。しかし、よく読んでみると同じ項目で「蒙古軍が、たった1日だけ戦って引き上げた」との記述がある。これは『八幡愚童訓』にしか記載がなく、実際は歴史書の中には一切記載がない。例えば『関東評定伝』には数日後に大宰府付近で戦闘があったことが明記されている(『蒙古襲来と神風』P.45)。「1日だけ戦って引き上げた」というのは現在では否定されている説である。そして「沈没した船の数200余隻、死亡者数3万人の記録があります。」とあるが、『高麗史』には未帰還者は1万3500余人とあり、数字が食い違っている。3万人の部隊で攻めてきて3万人死亡であればほぼ全滅であるが、信頼できる資料には「元・高麗連合軍は全滅した」との記載は一切ないのでおそらくこの数字は誤りであろう。このように他の記述も現在では否定されている説を踏襲したり出典不明瞭なので「高麗船手抜き説」も推して知るべし、だろう。

次に産経新聞の記事『元寇・文永の役(下) 元寇「新説」…蒙古・朝鮮連合軍900隻「消滅」の最大理由は朝鮮の「手抜き建造」か』を読んでみる。

関係個所を拾ってみると

原因については“神風”、つまり天候が有力視されるが、高麗が建造したとされる船の構造にも重大な欠陥があったともいわれている。
 
    船の建造は若い作業員を大量動員して突貫に次ぐ突貫だった。…(中略)…一瞬にして船団が消えた原因は、突貫による手抜きで造られた船底の浅い高麗船が、強風と高波とそれに伴う船同士の衝突に耐えられなかった可能性が高い。…(中略)…日本が確認した元・高麗軍の座礁船は約150隻にのぼったことから、たぶん全滅に近い被害だったのだろう。

 とある。こちらの記事も手抜き説の出典が不明で検証が難しい。信頼できる資料にも「半年で900隻の建造を命じられた」とあるので突貫工事で納期設定もかなり無理があったようで品質も悪い船が出来上がったのかもしれない。だが、信頼できるどの資料にも「手抜き」とまでは言っていない。「元・高麗連合軍の座礁船が150隻」とあるが、全900隻中であれば17%で一部に過ぎないし、水汲み用小舟300隻と敵前上陸用スピード小艇300隻を除く大型の外洋船300隻であれば半分と言える。150隻というのがスピード小艇等の含む数字なのかどうか不明なのではっきりとしたことは言えないが、筆者個人としては座礁船は小舟等を含んでいる数字と捉えた方が自然なのではないかと思える。それに、暴風雨や戦闘等で使用不能になった船も多数あるはずでそれを「手抜き」によるものとするのは論理の飛躍だろう。実際、弘安の役での台風直撃の際では日本の船にも被害が及んでおり、使用不能になる船が続出で船不足に陥っている。

次にサーチナの記事を見てみる。
"元寇で日本が勝利したのは、神風ではなく高麗人の「手抜き工事」が理由だった=中国メディア 2018-03-06 15:12"

こちらの記事は今日頭条という中国版スマートニュースでの記事の転載のようだ。ちなみにニコニコニュースや5ちゃんねるの記事もこれの「転載の転載」なので孫引きのような形になっている。記事中には

そのうえで、「1980年代、米国の考古学者がモンゴル船の残骸を分析したところ、船の多くで使い古した材料などが用いられるとともに、著しい手抜き工事が行われていたことを発見。台風はもとより、平時でもバラバラになりかねない代物だったという」と紹介している。
とある。そもそもサーチナの記事は基本的な事実関係がメチャクチャでこの印象だけで信用するに足らないと判定してもいいレベルなのだが(例えば文永の役では日本軍が10万人だったと記載があるが、それは『元史』にしか記載がない明らかな誇張表現である。防衛体制も十分整っていない上に九州の御家人が中心なのでそこまで人数をそろえることは不可能だ。中国の歴史研究の水準はこの程度なのだろうか?)、一応「高麗船手抜き説」の解説箇所のおかしさを指摘しておこう。

まず、サーチナの記事は学者名の明記がない。「1980年代の米国の考古学者」とは誰の事だろうか?ここをぼかしてしまってはどうしようもない。これでは人文系学部の1年生に課されるレポートレベルですらない。こんなものをレポートとして提出したら学部1年生ですら単位を落としてしまうレベルの低いものである(大学の教員が書いた新書には参考文献をろくに明記していないものもたまに見かけるが、それは大人の事情で内緒にしておこう)。ただ、論文執筆のルールをマスメディアの記事に安易に転用すべきではないかもしれない。アカデミーとジャーナリズムの世界では業界が違うからだ。たとえばマスメディア業界では「取材源の秘匿」というのは基本的な倫理規定とされる。この原則が破られると情報提供者に被害が発生し得て結果的に多くの人が情報を開示したがらなくなってしまうからだ。公益通報者保護法の立法趣旨と同じ発想である。しかし、今回の場合はどう考えてもその例には該当せず、むしろ明記しなければいけない事例だろう。よってサーチナの記事は当該説の妥当性云々というよりも、それ以前に手続き違反(出典の明記をしない)で「アウト!」であろう。

 また、サーチナの記事では文永の役で使用した船が手抜きだったというような趣旨だが、日本側の研究では文永の役での暴風雨は元軍撤退途中に起こったとしており、勝敗とは直接関係がない。記事には

そもそも高麗人がモンゴル人に対する報復のために手抜きの船を作ったことが、2度にわたり全軍壊滅した原因になったのだ

とある。前述の通り少なくとも弘安の役では高麗製の船は頑丈だった、むしろ江南製の船が手抜きの疑いあり、という評価なのでこの記述は明らかな誤りである。百歩譲って仮に文永の役では「高麗製の船が手抜きだったから沈没した」のだとしても、撤退途中に暴風雨が来た以上勝敗には関係のない話である(滞在中に暴風雨がきたという説も存在する)。よって高麗製の船の手抜き説はモンゴルによる日本遠征の失敗の原因にはなり得ない。

また、最近の沈没船の調査では実際は江南製の船は頑丈だったのではないかとし、手抜き説を疑問視する見解も出されている。

元寇船の底板、二重構造 粗製乱造でなかった? 琉球大調査
読売新聞(2012年10月10日16時53分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm (リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20121012225032/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm?
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、 昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造に なっていたと発表した。

 韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。

 これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの 見方もあったが、調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。 丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。

結論

以上みてきた通り、「高麗船手抜き説」は手元の信頼できる資料には一切記載がなく、ネット上の記述も出典不明で検証が著しく困難だということが分かった。そこで筆者としては「弘安の役で江南製の船がこわわやすかったため多くの船が沈んだ。手抜きの疑いあり」という説が「文永の役では高麗製の船が多く座礁した」というのと混同されて結びつき生まれた”俗説”ではないかと結論付けたい。

このように伝言ゲームで話がすり替わっていく例としては豊川信用金庫事件が有名だろう。
(※女子高生同士の会話で「信用金庫は危ないよ」とからかいのつもりで発した発言が伝言ゲームでニュアンスがすり替わってデマが広がり、最終的に取り付け騒ぎにまでなった事件である。詳しくはリンク先のWikipedia記事を参照のこと。)
また、この件で筆者の高校時代に「耳にピアスの穴をあけると失明する。知り合いの子がそういうことをして後悔した」と音楽の教師から聞いた話を思い出した(20年も前の話なので細部に関しては記憶がすり替わってしまっているかもしれない)。数年経って調べてみると完全なウソ(耳に視神経など全く通っていない)で、都市伝説の類だと分かったことを覚えている。筆者の見立てでは、おそらくこの教員は「ピアスをつける若者」に対する嫌悪感があって「ピアスをつけると失明する」という話に飛びついたのだろう。そしてこの話に箔をつけるために(信憑性を持たせるために)無意識のうちに知り合いの経験談に仕立て上げてしまったのだと思われる。同じように、本来は「江南製の船が手抜きの疑いあり」という話が高麗製の船の話にすり替わっていき流布していったのではないかと考えらえる。この経路のどこかの時点で嫌韓感情や中国メディアのポジショントークが一定の役割を果たしただろう。そして話に箔をつけるために「1980年代にアメリカの考古学者が唱えた」と仕立て上げることを無意識のうちにおこなってしまったのではないだろうか。もちろんその考古学者が実在しており実際の説とニュアンスが変わらず流布しているのであればこの見立ては崩れるのであるが。しかし存在証明と非存在証明の非対称性を考えると、筆者に立証責任はない(悪魔の証明)。出典が不明な以上、手抜き説は"ネット上の俗説"(都市伝説)と結論付けることにしたい。

2020年7月7日火曜日

NHK スペシャル『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 』を視聴した感想

前回に続き、『戦国~激動の世界と日本~ 第2集 ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ』を視聴した感想を以下に箇条書き。

・「これまで日本国内の出来事として描かれてきた戦国時代。ところが今、世界各地で新発見が相次いでいます。そこから、日本とヨーロッパの覇権争いが深く結びついてきた事が分かってきました。」とナレーション。「国内の出来事として描いてきた」というのは大河ドラマや歴史秘話ヒストリア等のNHKの番組的には、という事だろう。大航海時代が始まって、地球の裏側と直接人の行き交うことが可能になった時代(いわゆる第一次グローバル化)なのだから、あの時代の「地球規模での意外な繋がり」は詳しい人なら分かりきっていることではあるが。それに山田長政の話は江戸時代から知られているはずで高校日本史の教科書にも載ってるはずだし(※話に尾ひれついていて「伝説化」してるし実在を疑う学者もいるので眉唾物だが)、アンボイナ事件も高校世界史の教科書に載っている(※日本人傭兵の関わりまでは載っていなかったかも)。そして戦前にはタイオワン事件が戦意高揚のためにピックアップされたりしている。個別の詳細な事柄が新史料発見によって明らかになってきた部分は幾つかあるのだろうが、大枠の話は相当前から知られた話で、今更何をかいわんやという話だ。「遺伝法則の再発見」ならぬ「歴史の再発見」とでも言うべきか。NHKスペシャルの視聴者層の幅広さから考えると「戦国時代の地球規模での意外な繋がり」を伝える意義はあると思うが、「新発見ありました」と誇大広告気味に伝える必要は全くない。

・「日本は当時世界の3分の1の銀を産出していた銀大国。その銀を巡ってスペインとオランダが世界の覇権を争った」みたいなナレ。「覇権レース」にはイギリスも存在したし、この時期はポルトガルはスペインと同君連合だったとはいえこの後再独立してオランダに奪われたブラジルの砂糖生産地を取り返したりしているわけで、プレーヤーがスペインとオランダだけってのは単純化し過ぎでは‥と色々突っ込みたくなってきた。あまりに複雑化させるといろんな視聴者が見ている以上、混乱してきて伝えたい事が伝わないという本末転倒になってしまうというのは分かるが。それでも所々の大袈裟な表現で引っかかってモヤモヤする。

・ポメランツが登場。著書を読んだことはあるが、姿や肉声までは見た事は無かったので「こんな顔してこんな肉声している人だったんだ」と親近感が湧き感慨深かった。

「戦国時代の日本はまさに世界史の最前線だったのです。」
‥ちょっとリップサービスが入ってるかな。

「ヨーロッパ中心の歴史観を改めなければならないでしょう」
‥それ、100年以上前からずっと言われ続けてますね(笑)。シュペングラーの『西洋の没落』から始まってトインビーやマクニール辺りまでずっと断続的に。まあ著書を読んだ印象や日本の学者の間の評判で判断る限り、その中でもポメランツはアンチヨーロッパ中心史観に逆張りし過ぎな気もするが(笑)

・オランダが日本まで進出し徳川家康に営業攻勢をかけてきた背景として「スペインから独立したオランダは富国強兵のために海外進出した」とナレーション。
う~ん、17世紀辺りはオランダの貿易の中心はバルト海や北海の域内貿易がメインだし、元々フランドル地方は中世後期頃から商工業の先進地だし、富国強兵のためにわざわざ日本に営業攻勢にくるというのは違和感がある。日本の「明治維新」だって国内改革→海外進出だから時系列が違う。ポルトガルやスペインは海外進出し過ぎて逆に本国が疎かになってしまった感があるし。

・海外進出の動機は各々

オランダは商業目的
スペインは布教と領土

と解説していた。少し単純化し過ぎでは?‥とも思ったが、あながち間違いでもないか。比重で言えばその目的がメインなのはその通りだろう。正確に言うとオランダ東インド会社は利益優先(今のインドネシア辺りで細細と布教もやっていたりするがスペイン並に本腰入れてなかったはず。)だが、西インド会社は布教も目的の一つだった。まあ西の方は東に比べて規模も小さいし振るわなかったが。現在の旧オランダ領と旧スペイン領のキリスト教徒の割合見ても両国の布教の本気度の違いがはっきりと分かるね。旧スペイン領の地名(サンフランシスコとかロサンゼルスとかサンアントニオとかアスンシオンとかサンティアゴとか)見てもカトリック由来が多いしね。

当時の統計ではスペインの海外進出者の9割は宗教関係者と公務員(宣教師や役人、兵士)で占められており、残り1割は自由業という区分だった。その自由業には医者も含まれている。商人の割合は僅かに5%だった。(オランダは未調査。)こういう数字からも両国の違いは浮かび上がってくる。来日した面々見てもスペイン・ポルトガルは宣教師ばかり目立つし、オランダ・イギリスの面々は全然様相が違う。家康の外交顧問となった三浦按針(ウィリアム・アダムズ)は船大工や航海士だし(スペインの無敵艦隊を破ったアルマダ海戦では船長として参加していた)、オランダは東インド会社関係者が目立つし。


・「スペインに取って代わって世界の覇権を握ったのはオランダ」みたいな論調だったが、スペインやポルトガルががっちり基盤を固めていた新大陸の大部分・西アフリカ・フィリピンあたりはオランダは手が出なかった。ブラジル沿岸部の砂糖生産地はオランダが奪った後ポルトガルが奪い返してる。これは正しいか、間違いかというより「物事の捉え方」の問題かもしれない。その捉え方も注意を要するが。領土主張はあくまでヨーロッパ向けの領有宣言(無主地先占ルール)であって、実効支配が伴っているとは限らない。結局フィリピンもアメリカに譲るまでスペインの実効支配が及ばなかった地域が存在していたし。